ケンジ ステファン スズキ氏の自伝的原稿(1967年入国から1991年まで)
「…それだけではなく、患難さえも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は鍛錬を生み出し、鍛錬は希望を生み出すことを、(わたしたちは)知っているからである」(ローマ人への手紙5章3-4節)。
はじめに:
今の自分の生き方に満足している人もいると思うが、何をしたら良いのか、今こんなことをしていて良いのだろうか、自分にはどんな才能があるのだろうか、など、悩みと不安そして自己の可能性を見出そうとして生きている人もたくさんいると思う。私もそうであるが、我々殆どの人間は家畜ではないので、「餌」だけでは生きて行けないだけに、生きることへの意味を考えれば考えるほど、多くの迷いが出てくる。不幸か幸いか自分が歩いてきた過去は見えても将来は見えない、それでも生きられるのは希望があるからだと思う。お金がたくさん貰え、大きな家を買い、幸せな家庭を築き、成績優秀な子どもに恵まれ、人に尊敬され、何も心配ない生活をしたいという望みを持つのは、多くの人が求める人生への希望だと思う。そんな希望を持って生きる我々にとって、希望を勝ち取るための努力も必要だが、その努力が活かされる社会基盤が必要だと思う。作物が実るためには、蒔いた種が育つ土壌が必要なのと同じように個人の努力が実るためには、その社会に努力を実らせるための仕組みが必要だと思うのである。私は自分の希望を見出すためデンマークという国に渡り、それから既に43年の歳月が過ぎた。デンマークという国は高福祉高負担と呼ばれ、デンマークの高福祉高負担については今までにも多くに人達によって紹介されて来たと思う。この本では自分の希望を見出すためにデンマークに渡り、その後40年以上デンマーク社会に生活してきた私の体験と見聞を通し、デンマークの高福祉とは何なのか、高福祉を支える財源をどのようにして確保しているのか、高福祉高負担社会を選択したデンマーク人など含め、デンマークという国について書いてみた。そんなことから、この本では私がデンマークに入国するまでの過程から書き始めることにした。読者の中には今の生活に満足している人もいると思うし、不満で悩んでいる人もいると思う。そんな人達に何らかの参考として使えるものであれが、幸いである。
第1章 デンマークに入国するまで
今は成田空港からコペンハーゲンまで直行便だと約11時間で着くが、この当時、飛行機でヨーロッパに飛ぶ場合はアンカレッジ経由で乗り継ぎ時間を含めると18時間もかかった。しかも飛行機に乗れる人は富裕層か公費で出張出来る人達に限られていた。そんな時代にヨーロッパに渡航するということは普通の人達にとっては大変なお金と勇気が必要だった。
① 横浜からナホトカ港に向け出航
1967年3月26日(日)「とうとう離れてしまった。多くの友人を残し、多くの思い出を残して離れてしまった。この日を待っていたのかも知れない。今までの生活を忘れるために」。これは、私が学友のY君と横浜の港からナホトカに向けて出発した日の日記の書き出しである。22歳の時, 青山学院大学を3年で中退し、アルバイトで貯めた金と友人知人そして兄弟からの資金援助を受けて集めたお金は約350ドル、デンマークに向けて出発したのがこの日であった。私がデンマークに留学することにしたのは、デンマークの福祉の財源となっている「所得の再配分」の仕組みを知りたいと思ったためである。つまり、デンマークの金持ちから貧乏人にお金を配る国民間の所得の分配は、日本でも将来考えなければならない制度だと思い、その仕組みを知ることで、日本でも役立てると思ったのである。
この当時、最も安く、日本から欧州に渡航出来る方法は船と汽車を利用する方法しか無かった。私達を乗せた船は横浜港を出、津軽海峡を通りナホトカ港についたのは3月28日の午後であった。日記には「28日午後4時、船はナホトカ港に着いた。まだ寒く、風は非常に冷たかった。岸壁では10人ほどの人達が海に糸を垂らしていた、ここがナホトカで、ソビエトであると頭で判っても、まだ北海道当たりではないかいう思いがどうしても抜け切れなかった」と書いていた。日本政府は1966年、旅費の以外に500ドルまでの外貨持ち出しの自由化政策を実施し、その制度の導入で「モスクワまで片道10万円」の旅行が売り出され、海外への渡航は誰にでも可能となったが、この当時大卒の初任給は2万5千円ぐらいであったので、モスクワまでの片道切符は初任給で4ヶ月分という大金だった。私達が乗った船には多くの日本人が乗っていた。「ナホトカ港で入管手続きに3時間程かかり、19時10分発のハバロスク行きの汽車に乗った。列車の中は上下2段ベットになっていて4人部屋の寝台車であった、僕の上にY君が寝、向いの二段ベットにはパリに絵を勉強に行く武蔵野美大卒業生2名が寝た」と日記に書いていた。
② ナホトカ港からモスクワへ
ナホトカ発ハバロスク行きの車中でロシアの車掌から片言のロシア語を教えてもらいながら車窓から見る風景は「どこまでも続く荒野、未開の地が何処までも続いていた、白樺の木が三々五々生えていた」と日記に書き、「汽車は29日12時10分にハバロスク駅に着き、19時10分発のモスクワ行きの飛行機に乗るまで3時間程市内観光した」と書いていた。ハバロスクの町で見たものは「ハバロスクの市内は古い建物と新しい建物が入り混じり、素晴らしいビルがあったり、みすぼらしい家があったり、バランスが取れていない感じがした」と書き、この町の建物の多くは第二次大戦後日本人の捕虜によって建設されたものであることを後で知った。
ハバロスクの市内観光を済ませた我々はモスクワ行きの飛行機に乗った、当時の日記に「ハバロスク空港に戻ったのは午後4時頃であった、荷物を受け取り19時10分発8枚のプロペラが付いた巨大な飛行機に乗りモスクワ空港に向った。乗った飛行機の座席はちょうどプロペラの脇で上昇まもなくそのプロペラの騒音で9時間半悩まされた」と書き、「モスクワに着いたのは3月29日の21時40分、それからいろいろな手続きを済ませ、ホテルのベットに就いたのは30日の午前2時近くだった」と書いている。 当時、ロシア政府は外貨獲得のため、ロシアに入国した観光客に最低2泊を義務付けていた。
③ モスクワからヘルシンキへの汽車の旅
我々はモスクワの市内に2泊した後、3月31日午後11時40分モスクワ駅発、ヘルシンキ行きの汽車に乗ってフインランドに向かった。「3月31日の夕食を食べようとしたら食堂は満員、隣のホテルでコーヒーを飲み、帰って来てY君を起こし駅に向い、11時40分(PM)発のヘルシンキ行きの汽車に乗る、列車の中はモンゴル人2名ロシア人1名といった顔ぶれ」と書いていた。そして4月2日の日記には「今日はヘルシンキの町をぐるぐる回って観た。大変に明るく、静かで、美しく、気持ちの良い町であった。この町なら住めると思った」と書き「これから行くデンマークも大変に素晴らしい所だと思う」と書き、まだ見知らずのデンマークという国に私は大きな期待を寄せていたことが解る。
③ ヘルシンキからストックホルムへ
1967年4月3日(月) ヘルシンキ港発ストックホルム港行きの客船Boreの中で書いた日記には「今日はヘルシンキを出発し、ストックホルムに向かった。ヘルシンキで特に気が付いたことは貧富の差を感じることが出来なかった、それに道路の素晴らしいこと、そして町が清潔であった。(中略)、この町に比べ東京は大変汚く恥ずかしく思う、僕等のやることはたくさんあるような気がした。」と書き、ヘルシンキの町に比べ当時東京の街は汚かったことが判る、そして「ヘルシンキも大変美人が多い町である、10人の内6~7人まで日本でいう10人並以上の美人で女性を見るだけで楽しくなる」と書いている。 我々はヘルシンキの港を夕方に出、翌朝にスウエーデンの港に入る、船に乗った、多くの客は船のサロンにあるベンチやソファーで一夜を過すことになり、その船の中でスウエーデンの銀行に勤めるフインランド人「Eila」という女性に出会い、その女性からフィンランドを教えて貰っている。4月4日(火)の日記には「昨夜フインランドのEliaと遅くまで一緒に居たので朝から眠くてしょうがなかった」と書いているが眠れなかった理由は、その女性から一晩中キスをされ続けていたためであったが、私の日記にその事は触れていないのは、生まれて始めて受けたキスで恥ずかしかったためだと思う。「今日のストックホルムは厚い雲が垂れ下がり薄暗い、昨夜寝ていないせいで気持ちも重い」と書いている。4月5日(水)の日記に「今日は市内をぐるぐると周り歩いた。ストックホルムの町は古い町で、感じたことは東京ほどでは無いが、工事があちこちで見られた。車の数もかなりあり、ヘルシンキに比べ街が落ち付いている感じがした」。我々日本人がフインランドの人から大歓迎を受けた理由は、日露戦争に遡るということを後で聞いた。日露戦争の影響でロシアのフインランドへの圧力が落ちそのため、フインランドは大変助かったということだったのだ。そのフインランド人の気持ちを日本人に伝えるため、日本に就任するフインランド大使は、就任後必ず日本海開戦での旗艦「三笠」を訪れ、敬意を表していることも後で聞いた。
④ ストックホルムからコペンハーゲンへ
1967年4月6日(木)付けの日記には「今日はストックホルムを発ってコペンハーゲンに向かう。今朝7時30分に起きたが、旅の疲れが少し残っている感じで体はだるい。午前10時50分発の汽車に乗る予定で駅に来たが、その汽車は5月22日頃から運行するということが判り、20時20分発の汽車に乗ることにした」と書き「ストックホルムの駅の中で判らないことだらけだったので、隣の人に聞いて見たら親切に教えてくれた、人の親切さには何時の時でも頭が下がる、その親切にしてくれた「スワン」(恐らく「スベン」だと思う)という人とコーヒーショップでいろいろ話をした、時間があったので、時間つぶしに映画館を紹介してもらうように頼み、映画館を案内してもらいそこで、フランス映画2本と漫画1本の映画を観た」と書いている。そして映画館を出た後、夕食を取る場所を探すのに苦労したようで、日記には「世話をしてくれたスワン君と別れ、食事をする為、食事をする場所をいろいろ探したがなかなか見つからず、空腹で大変惨めな思いをした、それでも何とか見つけ、スパゲッテイとパンを食べた。スパゲッテイは大変うまく、後まで腹一杯であった」と書いている。食事を取った後、汽車に乗るまでの時間をデパートの中を歩きまわり、午後5時頃ストックホルム駅に着き、そこで、デンマーク人とスウエーデン人の女性にあっている。日記には「5時少し前に駅に来て、”ビビ” ”カアリン”というデンマークとスウエーデンの娘達としばらくしゃべり20時20分の汽車に乗った」と書き、そこで彼女達からデンマーク語を教えてもらっている。日記には「デンマーク語を教えてくれた人として、Miss Vivi Qvistorff,デンマークMiss Karin Jakobssonスウエーデン」と書いていた。
私の日記で見る通り、日本人の観光客が大勢押し寄せる今の時代では考えられないほど、当時日本の旅行者は現地の人達から温かく受け入れてもらえたことが解る。デンマーク人のViviさんから教えてもらったデンマーク語「ありがとう、マゲタック」、「いくらですか、ボメール」、「駅、スタシーン」など日本語をデンマーク語で発音して物を書いているが、発音の難しさが解る。何故ならば、有難うの「マゲタック」は良いとしても、いくらですかは「ボアマイ」であり、駅は「スタショーン」と書かれているべきであったからである。
⑥ デンマーク入国
私とY君がデンマークに着いたのは1967年4月7日である。「今朝6時45分コペンハーゲンセントラルステーションに着いた、荷持を取りに行ったがまだ届かなく8時30分になると言う、今日のコペンハーゲン市内は風がかなり冷たく耳が凍えるような寒さだった。この町でこの国でこれから4-5年間暮らさなければならないと思うと少し心配にもなってきた」と書いている。
この後、私はホテルの皿洗い、農場でのホームステイ、大学就学、結婚、就職、農場経営、商大卒業と起業、離婚そして再婚など今日までデンマークの高福祉高負担社会の中で生活をしている。日本から出た当初の計画では4~5年で帰国する予定であった。デンマークに残ったことで、失ったものもあるが、残ったことで、自分が求めていた夢と希望を適えることが出来たと思っている。
私が住みついたデンマーク、どんな国なのだろうか、「デンマークという国」について記述する。
第2章 デンマークという国
① 多数の島と平坦な国
デンマークという国はノールウエーとスウエーデンが所在するスカンジナビア半島南に位置し、ドイツの北方に出るユトランド半島、その他約400の島からなる国土面積約43,600km2の国である(九州と山口県を合わせた面積)。デンマークの統治領として世界最大の島グリーンランドもあるが、グリーンランドは国防と外交以外はグリーンランド住民の自治領となり、国旗もある。デンマークの人口は約553万人(2010年)この内約10%は移民や難民で、日本人国籍の居住者は約1,100人(2009)である。
デンマークの国土は今から約1万年、厚い氷で被われて居た大地の氷が溶け、表土が流れた後に残った後の土壌を何千年もかけ開拓して作った土地である。そんなことから、特にユトランド半島中西部から北部は今でも地表20cm以下は砂利か砂地の痩せた土地である。デンマークには高い山が無く最も高い場所をデンマーク人はヒンメルビヤー(天にとどく山)と呼び、海抜僅か173メートルの丘である。
② 猟銃民族から農耕民族になった国民と王家
今から6千から7千年前に南ヨーロッパから猟銃民族が北欧と呼ばれる地域に進出し、その民族が紀元前3000年頃から森林を切り開き、大麦やライ麦を蒔いて農耕民となり定住し、デンマークの歴史が始まる。青銅器時代(紀元前1500年~400年)、増産した農作物をバルト海諸国や南ヨーロッパン諸国に販売するため船舶の建造が始まり、これらの国々との農産品の交易よって、デンマークは栄え、船舶の建造技術がその後バイキング時代における海上移動の船舶を生むことになった。バイキング時代とは西暦793年から1066年まで、北欧の農民・職人がヨーロッパ各地、アメリカ大陸まで略奪や移民そして統治を繰り替えしてきた約270年間の時代のことである。デンマークの王家は西暦800年頃に生きたバイキング王「グーフレド」から始まったといわれ、今のマーガレット二世はバイキング王から数え54番目の国王に当たる。デンマークはノールウエー・スウエーデンと共に北欧三国と呼ばれ、教育、政治、社会福祉、宗教など政策面において類似しているのは西暦1389年デンマークの女王マーガレット一世がこれら3国を統合していたこと、言語も同じことが影響しているといわれている。
③キリスト教を国教とする国と哲学教育
デンマークが国家として偶像信仰からキリスト教国に転換したのは西暦1000年頃である。現在のルーテル教を国教として導入したのはクリスチャン3世(在位1534年~59年)で1536年のことである。この時からデンマークは「クリスチャン」であることを誓う堅信礼を取り入れ、今日においてもキリスト教や倫理教育は義務教育課程における必須科目である。大学教育を受けた人達の多くは中央官庁、政治家、業界上層部の職業に就いているが、デンマークの大学では哲学が必須科目である。コペンハーゲン大学の例で見ると、コペンハーゲン大学の創立は1479年6月1日、創立当時の学部は神学、法学、医学そして哲学の4学科であった。デンマーク政府は1675年から、哲学、心理学そして倫理学の国家試験を義務付けた。300年以上経った今なお、コペンハーゲン大学の政治学部では哲学は必須科目で、2008年コペンハーゲン大学の政治学部の教科にはギリシャの哲学者プラトーの「国家論」アリストテレスの「国家論」が教材として使われている。
また、コペンハーゲン大学政治学科では1788年から「デンマーク統計学」が必須科目となり、学生は国内外の動向を常時把握し、国民としてあるいは職に就いた後において国家の政策論につなげている。そしてまた、全国に約2,400の教会が所在するデンマークでは、教会の維持費を賄うため、デンマーク人の約80%が「教会税」を納税している。教会に勤務する牧師は公務員で、教会や野外における礼拝業務活動の他、児童の洗礼、堅信礼、婚礼、葬儀など儀式をその職務としている。デンマークでは殆ど毎週の日曜日あるいはキリスト教の祭日には礼拝があり、聖句を通し国民への教示と戒めとしている。
例えば、マタイ伝25章15-30節:「すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラント与えて、旅に出た、5タラント渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに5タラントもうけた。2タラントの者も同様にして、ほかに2タラントをもうけた。しかし1タラント渡された者は、行って地を掘り、主人のお金を隠しておいた、・・・・(以下省略)」この聖句で云おうとしているのは、全ての者は与えられた機会と能力を活かし社会のために努めなさい」という教示と、「地を掘ってお金を隠しておくようなことは」(箪笥預金)社会にとって何ら役立たないので止めて欲しいという戒めである。
これらの国民教育を受けた人達が今日のデンマークの政治家者に求めることは:
・ 国家をどのような方向に導こうとしているのか、ビジョン持った政治家(首相)であること。
・ どのような手段でより良い国家を築くか、ビジョンが語れる政治家(首相)であること。
・ 政党間における利害関係を踏まえ、交渉能力に長け、政党内外において信頼と尊敬される政治家(首相)であること。
・ 自己の政策論を強調し良い交渉相手となり、結果が出せる政治家(首相)であること。
④ 国防に多大な犠牲を払った国
中世のデンマーク史はドイツやスウエーデンとの国境争奪戦の歴史でもあり、バルト海域の利権争奪の歴史でもある。この中には「ドイツのハンザ同盟」との海上利権争いもある。この当時、領土争奪戦に駆り出されたのは農地を耕し家畜を肥育する農民で、土地や家族を守るために侵略者と幾度も戦い国土を守っていた。デンマークはナポレオン戦争(1799年~1815年)に加担し国防費を賄うため造幣で膨大なインフレを引き起こし、借金の返済が出来ず、1813年「国家の倒産」の経験もしている。デンマークは1864年ドイツとの戦争に負け、穀倉地帯であった南ユトランド地方一帯をドイツ割譲、国土面積の3分の1を失い、人口は250万人から170万人に減らした経験もしている。肥沃な国土を失ったデンマークを救った人がエリンコ・ムリオス・ダルガス(1828~94年)である。軍人教育を受け当時36歳だったダルガスはヒースに被われたユトランド半島中部の未開発の土地の開拓を手がけるため、1866年「デンマーク原野開発会社」を設立、その後20年かけて約40万ヘクタールの農地を確保した。この会社は現在も健在で、国内外での植林事業や森林管理など活動を続けている。デンマークが1864年ドイツとの戦いで失った国土の1部を取り戻し、今日の国境が出来たのは、第一次大戦後の1920年のことである。
⑤ 国土防衛から生まれた社会福祉国家
デンマーク人が国土争奪戦で払った膨大な犠牲が『国土や国家を守るのは自国民しかない』という国民性となり、今日のお互いを守り合うデンマークの社会福祉政策の根源になっている。例えば1799年の「コペンハーゲン貧困救済計画」公布、疾病保険制度導入(1811年)児童施設の開設(1827年)などの第一次社会改革がその例であり、その後1800年代の末から1900年代前半に第二次社会改革として高齢者救済法(1891年)障害保健法(1898年)障害年金法(1921年)など国民救済政策を取り入れたのである。さらに1930年代における世界経済恐慌時には第三次社会改革として失業保険、国民年金、障害保健の見直しをし、青少年失業対策法(1933年)、母子介護法(1939年)など今日の社会福祉法の基盤をつくったのである。
フレデリック七世(在位1848年~63年)が就任した翌年の1849年、「デンマーク憲法」を発効し、それまでの絶対君主制から立憲君主制へと近代国家の政治体制に変え、その後幾度か、憲法の改正を繰り返したがその都度、国民の国防への義務を語っている。例えば、今日の「デンマーク憲法」(1953年6月5日施行)89条において「武器を持てる全ての男子は国防への義務を持つ」と定め、それをもとに、今でも18歳~32歳の男子には徴兵の義務がある。デンマークの軍隊はNATO(北大西洋条約機構)の加盟国として、また、国連からの要請にもとずき、イラクやアフガニスタンなどにも戦闘部隊を派遣している。これらデンマーク人が導入した国策はデンマークが歩んだ長い国防で得た教訓から生まれたものである。
⑤ 農業の自立と国民教育
中世におけるデンマーク経済を支えたのは穀物とバルト海で採れたニシンの輸出であった。農民は穀類の収穫が終わった秋から漁民となってバルト海のニシン漁に出で、採れたニシンは塩付けにして、西ヨーロッパ諸国に運び、塩、銀貨などに交換しまたそれによって国家の財源としていた。この当時、デンマークの国土の大半は大地主が所有し、土地の耕作は戦争時においては兵士として戦場に狩り出しされる農民で、地主は労働力の確保のため、農家の子女が出生した場所から移動させない「拘束農民制度」をり入れていた。フレデリック6世(在位1808年~39年)は農民の自由と自立支援に努め、約300年間続いた「生地帰属農民制度」を1788年廃止、これがもとで、1815年頃には、農業労働者の約7割は自営農家になった。このフレデリック6世の善政が今日でも王家が国民から敬愛される理由でもある。過酷な労働から解放され自営農家を手にした農民たちは「守るのは自分達だけ」という独立精神を生み、1880年代に入り、穀類生産から付加価値の高い畜産生産に切り替え、中間業者の搾取から身を守るため、生産から加工そして販売に至る「農業協同組合制度」の設立に繋なげた。
デンマーク農民の協同組合制度確立や、国民の「共生精神」の育成に多大な影響を与えた人が、ニコライ・フレデリック・セベリン・グロントヴィ(1783~1872年)である。グロントヴィは「国民の人格教育」の場として、当時労働人口の約半分を占めていた農業従事者相手に全寮生の国民高等学校を設立、実践教育を基本に国民の「共生精神」の育成に努めた。デンマーク人に「希望、理想そして弱者を守る人道主義」を語った人がアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875年)である。アンデルセンの童話「おやゆび姫」(1835年作)では、「試練と希望」を語り、「人魚姫」(1836年作)では「親の愛情を受けて育った子どもは苦労せず生きられるが、親の愛情が受けられなかった子どもの人生に長い試練がまつわる」と語っている。また、「裸の王様」(1837年作)でアンデルセンが描いているのは「権力者にしがみ付いて生きている人間の弱さ」であり、「権力を傘に威張るな」という戒めでもある。
⑦ 自衛手段として生まれた「農業協同組合」
今日おいても、デンマークの養豚業農家や搾乳農家は食肉解体工場、酪農工場を所有し、輸出を含めた販売会社を運営し、年次報告書を元に総会を開き、利益分配のボーナス制度を導入している。デンマークの農民が導入した「農業協同組合制度」は大農も小農も投票権の同一制や生産者価格の統一を図り、また、農業経営者への融資制度の確立、農業従事者の資格教育制度の導入、農業経営支援や世代交代への指導制度導入など農業従事者を支援する各種の制度の導入の結果、デンマークの農業は今日の人口約553万人に対し、約1500万人分の食料を生産していると言われている。
デンマーク農業ついては付記すると、デンマークの夏場での平均気温は16度前後、デンマークの年間平均雨量約780mm平坦地が続く国土は農地として耕作するのに適し、デンマークの農家は穀類や牧草を生産しそれを、家畜の餌に当て養豚、酪農に力を入れて来た。今日でも、デンマークの国土面積の約61パーセントに当たる267万ヘクタールは農地である。デンマークの農家は、国際競争に勝つため、小規模農業から大規模経営化を進め、2009年における一戸当りの農地面積は約64ヘクタールと20年前に比べ倍増し、農家戸数は30年前の約99,000戸から約41,400戸と半減した。デンマーク農業の主要生産物は酪農と肉生産である。特に豚肉や牛肉そして酪農製品の殆どは自給率100%遥かに越える生産をし、長年の間、デンマーク最大の輸出品目となり、デンマーク国家財政の基盤となっている。特に食料の確保について言及するならば、国民の生活を守る上で最も大事なことの一つは食料の確保である。デンマークが第二次世界大戦時にドイツ軍による5年間も占領されながら、戦死した国民数は1000人以下で破壊された建物も僅かだったのは、ドイツ軍はデンマークの農産品の供給を受けざる得なく、攻撃することを避けたためだと言われている。
第二次大戦でドイツ軍に激しく抵抗したノルウエーは子ども達を餓死から守るため、子ども達多数をデンマークに移住させ、育ててもらったという話も聞くと、デンマークは第二次大戦中においても食糧庫の役割を果たしていたことが解る。フランスの元大統領「食料の自給なしに民族の独立は無い」と語り、国家の指導者として最大の義務は国民が存続するに必要な食料の確保だとされている。そのことから観ても、デンマークがカロリーベースで完全に自給できる農業を営み、大幅な農産品の輸出に繋げていることは、デンマークという国の足腰の強さだと言える。
⑧ 産業と融資銀行の発足
デンマークの産業は農家の副業として、羊毛を原料とした衣類の手編み製造と販売から始まった。手工業とは云え、国内市場が小さいデンマークのメーカーは国外市場に販売の活路を見出ださざる得なく、既に西暦1400年代の中頃から現在のノールウエー、スウエーデン、ポーランド、北部ドイツを市場として羊毛で作った衣類を輸出して来た。デンマーク最初の株式会社はクリスチャン四世(在位1588~1648年)の時代に国と資本家がお金を出し合って設立した「東インド株式会社」(1616年設立)である。また、デンマーク最初の通貨融資銀行ができたのは1736年のことで、設立目的は製造業を振興されるため融資銀行として発足した。
デンマークのメーカーが国外市場に販売を依存する性向はその後も変わることなく、今日に至っている。この中には例えば、玩具メーカーレゴ社、ポンプメーカーのグロンホ-ス社、世界最大の風力発電機メーカーベスタス社、薬品メーカーノーボノーデスク社など、デンマークの会社の大小問わず、売上額の90%以上が輸出である。デンマークの対日貿易では、デンマークの大幅な出超となっている、対日輸出の主な品目は農産品や医薬品で近年においては風力発電機の輸出がある。デンマークの国外市場相手として商売し国家財政の基盤につなげるという経済構造は中世から今日まで基本的には変わっていない。その結果デンマーク人1人当りの貿易額は日本人1人当りの約3倍になっている。デンマークのメーカーの多くは地方都市に営業所や生産工場を所有しているが、コペンハーゲンに本社を持つことは殆どない。その理由はメーカーは政治や官僚との接触がないこと、大都市で高い家賃を払ってまで事業を運営するメリットがないこと、大都市に事業が集中しない分通勤時間も短くて済むためである。
⑨ 職業別労働組合と失業対策
デンマークの労働市場は労使とも今から100年以上前の1896年デンマーク雇用者連盟が発足し、1898年全国労働者連合結成された。デンマークの労働組合の結束に多大な功績を残した人は当時郵便局職員であったルイス A.F.ピオ(1841~1894年)である。ルイス ピオは友人ブリックス、ゲレッフと共にデンマークの社会民主党の発足(1878年)にも大きな役割を果たした。デンマークの労働者の代表する社会民主党が最初に議会に代表者を送り込んだのは1884年である。1924年社会民主党はデンマーク最大の政党となり、初代首相を務めたのが、葉巻選別工を務めたトーバルスタウニング(1873~1942年)である。
今日おいて、デンマークの労働者の約7割が全国職種別労働組合に加入し、雇用者連盟の結束と共に世界で最も結束率が高い労働市場と言われている。賃金や労働時間数などの労使交渉は労働者側組合と雇用者側組合によって取り決め、同じ職種例えば「事務員」であれば、全国の事務員組合が全国の雇用者組合の代表との間で労働条件を決めるため、どこの職場に勤めようとも報酬(給与)は同じである。デンマークの就労者は雇用者との間で毎年雇用契約書を結び、解雇や再雇用が頻繁に行われる。給与体系は事務職関係者は月給制であるが、職人、メーカーのブルーカラーと呼ばれる製造部門に勤務する人達の報酬は時間給である。デンマークの労働人口約210万が29の「職種」労働組合に加盟し、失業保険の受給期間はスカンジナビア諸国では最も長く4ヵ年間である(スウエーデン、ノルウエーは2ヵ年間)である。労使間調停の違反行為や紛争の仲裁役としてデンマークでは、労働市場の最高裁と呼ばれる労働裁判所がある。
⑩ 職場と教育
デンマークの職業は資格教育を通した「職種」別職業であるため、同じ勤務先であっても、その職種によって就業内容が異なるしまた、在職年数で職務が代わることはない、報酬(給与)額は受けた教育資格によって異なり、受けた教育が職場の業務となる。例えば、一般事務員の資格者が、キャリアアップの教育を受けその資格を取らない限り、就業内容は変わらないし、高い報酬(給与)を受け取ることは出来ない。デンマークの労働組合も雇用者組合も全国の代表を務めるため、報酬額を含めた労働条件は組合の代表者と、雇用者組合の代表によって、決められる。そういうことから、「事務員資格者」が加入している組合員の給与はデンマークのどの企業に勤めようが基本的には同じである。一般事務職からグレードアップしたい場合には、商科大学など、就業しながら勉強も出来る夜間大学に入学し、そこで、「組織学科」、「国際貿易学科」、「金融学科」あるいは、私が選択した「税理士学科」に学ぶことだ。勿論退職し、就学支援金を受けながら通常の大学や職業学校に入ることも出来るが、その場合大幅な収入減になるので、仕事と就学を両立させるのは過酷だが、デンマーク人の多くは、仕事をしながら、大学に通い、その卒業資格をもって新たな「職種」の仕事に就きそれによって報酬額(給与)も当然アップさせることにしている。最近の数字ではないが、デンマークにおける教育を受けた期間の長さと得る報酬の関係を見ると(2007年、平均値)、高卒の年金手当てを含めた月給は約2万5千クローネ(約50万円)、短期高等教育(3年~4年)卒業の人達の年金を含めた月給額は約3万クローネ(約60万円)、同じく長期高等教育(5年~6年)を卒業した人達の月給は4万5千クローネ(約90万円)で、博士課程卒業の人達の年金を含めた月給は約5万5千円(約110万円)となっている。こういうことからデンマークには30代の男女で日本円で年収1千万円を貰っている人は珍しくない。デンマークの社会保障制度については後で触れるが、デンマークでは仕事をしなくても生活できるだけの保障が整っている。にも関わらず、デンマーク人の多くは就業している理由は、自分の可能性を追求すると共に生活保護に比べ3倍も4倍も多い収入になる仕事に就くことが出来るからである。因みにデンマークの地方市議会議員は仕事を持つボランテアーが議員を務めるため、議員報酬が無く、交通費などの手当として年間6万5千クローネ(約130万円)が支給されるのみである。町長とか市長は専門職なので月給がでるがその額は日本円で80万円~100万円である。国会議員の場合、首相の給与は日本円に換算してで年間約3000万円程度、大臣職は約2600万円であるが、一般の国会議員の年収は1000万円程度あり、デンマークの国会議員の給与は長期高等教育を受けた人達と同じかそれ以下である。
⑪ 民主主義と幸福な国民
デンマークは民主主義の定義である「国家の運営に必要な信頼に足りる質の高い情報が開示し」その情報を元に「国家の運営に直接参加できる仕組み」を取り入れた、世界の中で最も民主主義が進んでいる国だといわれている。国会議員の選出選挙の投票率は常に85パーセント前後であるのは、民主主義の定義である、国家運営に直接参加している裏付けだと思う。このデンマーク人が作った民主主義国家は「健康で良い教育が保証された国の国民」となり、イギリスの社会学学者アドリアン・ホワイト教授は世界で最も「幸福な国民」はデンマーク人だと云っている。この民主主義が進んだ世界で最も「幸福な国民」が住むデンマークに私は1967年から居住している。私が体験し、見聞したデンマークの高福祉高負担社会とはどんな社会のことか、これからそのことについて書くことにする。
第3章 デンマークの高福祉社会での体験
①デンマーク入国当初の仕事と語学教育
私がデンマークに入国した日は1967年4月7日(日)である。当時デンマーク経済は好景気の真っ只中で、(1965年から1970年のGNPの伸び率は年10%~13%)、デンマークの労働市場は人手不足に悩まされていたこともあってか、私の場合、デンマーク入国3日目にホテルの皿洗いの仕事が見つかりその日の内に労働組合(ホテル従業員組合)の失業保険に加入し、入国管理局に出頭、その場で半年の滞在と労働許可書を受けることが出来た。語学学校に行けるお金もなし、殆ど外国人だけが働くホテルの皿洗いではデンマーク語の習得は困難であったため、ホテルの皿洗いの仕事を5週間ほどで止め、日本を出る前に紹介してくれたデンマーク人の元農学校の校長先生の協力を得、農場にホームステイすることが決まり、5月末ユトランド半島中西部の田舎町の農場に移った。その農場には翌年の4月まで滞在したが、農場での農作業や家畜の世話を手伝いながら、デンマーク語を習うために地元の小・中学校に通学することになった。当時私は23歳になっており、入学を認めてくれた教育関係者に感謝し、何年も後に「組織は人を育てるためにある」というデンマーク人の考え方を知った。1968年から3ヶ月国民高等学校に通い、デンマーク語の授業に慣れることに努めたが、言葉が解らないところでの生活の厳しさを知り孤独感を味わった。
② 留学と入院、就職そして結婚
1968年9月青山学院大の就学証明書だけで、コペンハーゲン大学の政治経済学部に入学することが出来た。家庭の経済的事情で仕送りが受けられない私は生活費を稼ぐため、通訳やガイドのアルバイトやホテルの皿洗いなどしながらの大学生活であったが、デンマークの入学金も授業料も取らない教育制度は素晴らしいと思った。大学での教養科目は哲学のみで、大学生に哲学教育を義務付けたのは1675年だと、最近になって知った。経済理論、経済史、経営学、デンマーク統計学などの専門分野で教材の半分は英文で、授業を受け持った先生の多くは同じ大学の先輩でアルバイトとして後輩に教えていることを後で知った。デンマークの学生の多くは英文での卒論で書いていることも後で知った。国内市場が小さいデンマークで、就職先は見付からない場合は国外で働く、そのため卒論は英文で書いているということだ。コペンハーゲン大学2年目の夏、アルバイト先でモーレツな腹痛に襲われ、そのまま病院に入院、診察の結果、腎臓結石と診断された。入院と手術を含め約3週間、下着などの衣類から食事を含め完全な看護下で入院し退院したが、病院から入院費の請求書が出なかった。デンマークの病院には「会計」という窓口が無く入院費は国庫が負担することを知った。今日では、デンマークには僅かながらお金を払って治療が受けられる「私立」の病院もあるが、殆どの病院は、地区行政が運営管理責務持つ公立病院である。緊急患者以外、病院での治療が必要かどうかの判断は家庭医が決める。子どもでも年寄りでも年齢に関係なく、健康診断や病気に罹った人の、最初の診断の窓口は、市町村内に人口数に合わせ、開業している家庭医である。例えば、血圧、血糖値、糖尿病のチェックの窓口は家庭医であり、診察の結果、家庭医が入院が必要と判断した場合、入院先病院の手配は家庭医がやる。病院からの受け入れ書類を持参しない限り、病院での診察や治療を受けることは出来ない。家庭医の報酬額は地方行政との間で取り決めされているため、患者は診察料を払うことは無い。入院が必要な場合でも、患者は入院費を心配する必要はない、なぜならば、病院に入院しても食事から治療費まで国庫負担で、本人負担がないためである。心臓病などの治療には億円単位の費用がかかる入院費についても、本人や保護者の負担はない。例えば、心臓に欠陥があって生まれた私の孫のように、入院費や治療費、保護者の病院での宿泊費(デンマークの病院には児童が入院した場合の保護者の宿泊設備がある)など、過去9年間に掛かった費用はおそらく億単位の円になっていると思えるが本人や保護者負担はない。何れにせよ、デンマークは妊婦から他界するまで病気の治療にお金がかかることは無く、これら医療費は国民の納税で賄い個人負担は無いのである。
デンマークに知り合いも家族も居ないで中での入院中に見舞いに来てくれたのが、国民高等学校で知り合ったデンマークの女性で、その女性と1970年3月ユトランド半島の教会で結婚した。結婚式の費用は招待したお客に食事代を負担するのみで教会での結婚費用は無料であることが解った。しかも招待客への食事代は嫁側の親が負担することになっていることも知った。そんなことで私は、無一文であったが、結婚できたのである。結婚する前年の11月、デンマークの教会で「クリスチャン」としての洗礼を受け、洗礼名「ステファン」を頂き、デンマーク国教の信者となった。結婚と共に大学での勉強を止め、イタリアの航空会社にトラフィック・アシスタント(地上職員)として就職した。結婚後、コペンハーゲン市内から南約40kmのクーゲという町のアパートに引越し、夫婦生活を始めた。妻はその町のフォルケスコール(日本の公立の小中学校に該当)で国語と音楽を教える先生として勤務したが、妻の転勤に伴い、教員の住宅確保は行政の責務であることを知った。私は同じ年の12月、約9ヶ月勤務したアリイタリア航空会社を辞め、1971年1月から在デンマーク日本大使館に領事事務の補助員として就職した。
③ デンマークの出産と育児
長女が生まれたのは1971年8月、当時、妊婦の出産前後の有給休暇は8週間だっと記憶している。この当時も出産費用は無料で、役所から『出産祝金』を頂き、そのお金で乳母車を購入したことを覚えている。今日(2010年)デンマークの妊婦は出産までの間に計8回、医師などによる検診が無料で受けられる。その中には胎児のスキャナー検査が2回あり、最初の検査は12週目で2回目の検査は20週目でと言われている。出産費も国庫負担で本人負担は無い。デンマークの妊婦の出産前後に取れる有給休暇は公務員の場合34週間、(民間企業は29週間)である。子どもの出産で父親が取れる有給休暇は公務員も民間企業に勤める人も2週間である。 デンマークの育児について、私達はベビーシッターを雇った。妻がホルケスコールで国語と音楽を教え、その当時も今日と同じように、先生が受け持つ授業のみが勤務時間となっていた。そんなことで妻は午後2時頃には帰宅出来ていた。午前から午後2時頃までの育児は、中学校を終えたばかりの娘をベビーシッターとして雇い、長女の育児に当たってもらった。私達夫婦はその後、次女と三女の育児の手伝いも含め8年間ベビーシッターを雇った。この中には帰国して銀行員になった私の妹、岩手県で教員となった姪も含まれている。今日、EU諸国27カ国中で最も女性の就業率が高いのはデンマークで、16歳から64歳の女性の約74パーセントが就労している。デンマークの女性が職場に出られる背景に、育児制度が整っていること、就労37時間を厳守していること、子どもが病気の場合有給が取れること、などがある。例えば、子どもが病気した場合、公務員も民間企業に勤務する人でも1日有給が取れ、子どもが重病の場合、保護者は5日間の有給休暇が取れる。因みにデンマークの給与所得者の有給休暇は年6週間である(2010年)。
④ デンマークの育児制度
デンマークでは年間約6万人の子どもが出生するが、産休後の育児体制を確保する責務は市町村行政にある。市町村行政は託児所、保育園の設備を確保し、「保育ママ」やベビーシッター制度の導入を通し、育児に当たっている。育児料金は託児所であれ、保育園であれ有料である。デンマークの子ども達の多くは「保育ママ」が育児に当たっているが、「保育ママ」は専門職で、一人当り4~5名まで自宅に児童を預かり、月額日本円で約40万円相当に当たる2万クローネから2万5千クローネの所得になっている(保護者の負担額はこの内の約25%、残りは市町村の助成金)。ベビーシッターを雇う場合でも市町村から助成金がでる。例えば、私の三女夫妻は1歳の長女の育児に隣の家族と一緒に21歳のベビーシッター一人雇っているが、1歳児2名の育児を週労37時間、ベビーシッターに見て貰うと、月額料金は日本円で約30万円になる。その内約75パーセントは市からの助成金である。この育児費用の補填としてデンマーク政府は年齢に合わせゼロ歳から17歳まで児童手当を支給している。児童手当額は年齢層で異なり、0歳~2歳までの児童手当額は年間約17,000クローネで日本円で約32~33万相当である。3歳~6歳の年間の児童手当は約13,500クローネ、7歳~17歳の児童手当は年間約10,500クローネ(何れも2010年)である。
また、重病に陥った子どもや障害を持つ子どもを持つ親が、自宅で子育てすることに専念した場合は、それによって、失われた報酬(給料)はサービス法第42条の規定で市町村が全額保障する義務がある。仮にその親の年収で1千万円であっても全額保障するという制度である。例えば、2009年約18,800人の就労者が給与補填を受けたがその総額は日本円で約240億円になっている。
⑤ 国民への持ち家政策と転職
私達は結婚後間もなく、政府が導入した「住宅積立金」制度を利用し、住宅を購入するための預金を始めた。この制度では夫婦1人当りの積立金は月額100~500クローネで2ヵ年積立すると、積立した額と同じ額を銀行から無条件で融資出来こと、銀行が出す積立金への利息分と同じ額を政府支払う、という制度であった(私の月給は当時2500クローネ)。そして私が28歳になった1972年夏、デンマークではごく平均的な敷地750m2 住宅(建物と車庫)面積150m2の不動産を28万クローネ(約1200万円)で購入した。デンマークの住宅の売買契約では、購入額の約1割を頭金として払い、残金は10年間の抵当債券を発行したり、購入した不動産を担保に銀行から30年ローンの融資を受け、精算する仕組みとなっている。この住宅はその後、子どもが3人になり、ベビーシターの部屋も必要になったので、平屋から二階建にした。
私達の娘3人とも30代で家を持って住んでいるが、デンマークの住宅の売買制度は、私がデンマークに入国した頃と基本的には同じである。そんなことから、デンマークでは20代で持ち家を持っている人が珍しくなかったのは、国の国民に住宅を持たせる制度のあるためだと、思っている。
私は35歳の時、約8年間勤務した在デンマーク大使館を退職し、年金生活に入る舅さん夫婦が所有していた農地25ヘクタール(約76、000坪)の農場を購入した。農場の購入代金は約7年間住んだ家を売却して工面したが、住宅の増築の効果とデンマークの好景気の影響で、農場の買値と住宅の売値がほぼ同額であった。そのため、農場購入での借金を追われることなく、農場経営が出来た。
⑥ 職場を替えるデンマーク人
デンマークの人達は、仕事へのモチベーションを高め、自己の可能性を追求しそれによって所得増を見込むため職場を頻繁に変える。デンマークの統計によると、同じ職場での勤続年数は男女とも8年程度である。最近、著者が住む領域に電力を供給している配電会社の社長が68歳で退職したが、彼の略歴で職場を替えるデンマーク人様子が解る、彼の職業は大工さんから始まった。その後彼は、建造物構造技術者の資格を取りその職に就く、さらにエンジニアーとしての教育を受けその職に就く、その後、ホルケスコールにヘッドハンターされ教育者となる。彼はその後市役所の技術部部長に転職、その後さらに、配電会社社長に就任、そこで18年間勤務し退職した。
塗装工から大臣になったデンマーク人の経歴、この人は1926年北ユトランドの田舎町に生まれ、1945年塗装職人となる。1947-48高等学校に就学し、1953年教員資格取得し教員となる。1964年から1970年までフォルケスコールの校長務め、その傍ら社会民主党のオーフス市議会議員として1966年から1997年まで務める、その後、オーフス市助役として1970年から1982年まで務め、1982年から1997年までオーフス市市長を務めた(コペンハーゲンに次ぐ都市)。しかもこの間全国市町村審議会会長を1979年から1982年までと1986年から1992年までの2回に渡り兼任し、その後、1997年には内務大臣に就任し2000年まで務めた。
このようにデンマークには、略歴を見ただけで楽しくなるような転職を繰り返している人が居るということだ。 勿論、職業学校で塗装工の教育を受け、生涯塗装工で終える人も居るが、中には前出した人のように塗装工から大臣にもなっている人がいる。この裏には誰でもキャリアアップが出来るような教育制度をデンマークでは用意しているためである。そういうことから、新たな職業に就きたい人は資格教育を受け、その資格を持って職替えを繰り返しているのである。私もその1人である。私が受けた再教育に関しては後で触れることにする。
最近の報道によると、今年(2010年)サラリーマンの約22パーセントが職換えすると報じていた。デンマークの給与所得者が頻繁に職場を変える背景には、長年かけて作り上げた「職種別」労働組合制度と、再教育の教育機関と条件を労使交渉の中で取り決め、国家がその支援をしているためである。
⑦ 国籍取得と農場経営で受けた支援
デンマークの農地は日本人の国籍では取得出来ないため、私は1978 年12月、デンマーク国籍を申請した。デンマーク国籍を取得できたのは翌年の12月で申請から丸1年後のことである。国籍申請から取得するまで丸1年掛かった理由は、デンマークの国籍審査は、行政レベルで決めるのでは無く、通常の法案と同じように国会で審議することになっているためである。私がデンマーク国籍を申請した頃は国籍取得申請者としての資格試験はなかった。今日ではこの試験に合格しないと国籍の申請資格者にはなれない。日本と同じ血統主義を基本とするデンマークで、デンマーク国籍の取得によって、私は日本国籍を喪失し、現在のフルネーム「ケンジ ステファン スズキ」となった。因みに2008年デンマーク国籍を取得した人の数は5772名である。その中でアジア諸国人の国籍取得者数は2713人であるが、この年、日本人でデンマークの国籍を取得した人はいない。
デンマークの農地を取得する場合、「農業従事者としの教育」(通常3年間農学校で実習と理論を学ぶ)を受け、それに合格しないと、銀行の融資も受けられないことになっているが、私達の場合、家族間の取引だったため、農業従事者としての資格取得の必要は免除された。デンマークには家督制度が無いため、農場主は、国民年金が支給される65歳前後に農場を売却し、そのお金で宅地を買い住宅を建てたり、既存の住宅を購入し引越しするのである。一般住宅の場合も同じで不動産の所有期間は殆どの場合一世代限りで、息子や娘が受け継ぐ場合は買い取ることになっている。その買取価格は毎年政府が発表する不動産評価額が基準となり、評価額に対し80パーセント以下で売却すると、贈与税がかかる。デンマークの農場は税法において「年次会計報告書」の提出が義務付けられており、そのため、殆どの農場経営者は税理士に「年次会計報告書」の作成を依頼している。農場の売買契約でもっとも大事な書類がこの「年次会計報告書」であるが、農場購入者が注目するのは、農場の評価額、ローンの残額、原価償却額の累積額、農場の収益率である。
私は1979年7月から養豚農場経営者として、25ヘクタールの農地は主に豚の餌となる大麦の生産地に充てるため、農地はトラクターで耕し、肥料を蒔き、種を蒔き、収穫するという農作業をした。収穫した大麦は自宅で精米し(デンマークは一般住宅も含め動力用として3相の400ボルトが配電されているため、どこの農家でも自前の精米所を持っている。)配合飼料と一緒に餌として豚に与えた。デンマークの養豚は生産から解体そして販売までの制度が整っており、養豚業者は養豚に集中し、子豚から出荷するまで約半年かけ、生体で100kgまで肥育する。出荷においては運搬業者に電話連絡すると仮に1頭(匹)でも引き取り来る。運搬業者は豚を協同組合の食肉解体工場に運び、そこで豚は解体され、肉となって市場に出して販売するが、これも協同組合である。食肉解体工場では引き取った豚の屠殺重量、肉率など明細書を生産農家に発行し、同時にその時の生産者価格に基づいて算出した、豚肉代金を生産者の銀行に払い込む。(デンマークの酪農でも養豚業でも生産者価格が毎週発表される)。そして食肉解体工場は年に一度総会を開き、養豚農家に対し、利益処分として調整金を支払う。豚肉や牛肉の場合は1キログラム当り幾らとなり、牛乳の場合1リットル当り幾らとなる。この調整金額が少ないと生産農家は経営陣の解雇を要求できる仕組みが出来ている。
私は、舅さん夫妻の農場を購入し、農地の耕作方法、豚や牛(肉牛も飼った)の肥育方法を含め、デンマーク農業の実態に触れる機会を得た。家畜を飼うことに全く素人だった私に、豚の飼育方法や農地の耕作方法を教えてくれたのは、私の舅さん以外に近所の人達である。病気になった豚への注射の仕方、人口受精や豚の去勢方法、化学肥料の蒔き方や除草剤の散布についても懇切丁寧に教えてくれた。豚の分娩には深夜まで何回も立ち会い相談に乗ってくれた。収穫時の脱穀や麦藁の収穫においては毎年何十時間も手伝ってもらった。今日では、私もこの人達も年金生活者になったが、会うたびに農場経営時代の思い出話が出る。私にとってデンマークの農場経営は肉体的に最もハードな時代であったが、このお陰で今でも50kg程度の物でも持ち上げる体力が出来た。訪日するたびに、滞在先「風のがっこう栃木」でストーブ用の薪作りをしているが、その体力は農場経営時代に作れたと思っている。 また、後で触れるが、農場所有と経営の経験が、再生可能エネルギーの研修センター「風のがっこう」開設と研修活動に大きな役割を果たしてくれた。
⑧ デンマークの教育制度
私達が農場に移った1979年の夏、長女は8歳、次女6歳、三女4歳であった。町の小学校まで約12kmあり、この当時も今日と同じように子ども達はスクールバスで通学する制度が出来ていた。
デンマークの行政は、学校まで3キロメートルを超える場所に住む子ども達の通学(送迎)に無料でスクールバスを運行させている。デンマークの子ども達は、6歳になると義務教育の幼稚園クラスに入り、その後1年生から9年生(任意で10年クラスにも入れる)がある。義務教育を受ける子ども達の中には市町村が運営する公立学校に就学する子供の他に、試験が免除されたり、宗教教育が免除される保護者運営のフリースクールに入学する子ども数多くいる。フリースクールの運営管理費には国庫から助成金が出るが、保護者も負担する。また、デンマークには8年生以上を対象にした全寮制の学校(エフタースコールと呼ぶ)が多数ある。エフタースコールも保護者の代表が理事会を設立し、その理事会が校長、教員を採用している。学校運営には国庫から助成金が出ているが、学費として保護者の負担金がある。保護者の負担額は保護者の収入によって異なり、例えば今日、日本円換算で年収6百万円ある保護者の場合、エフタースコールに払う学費(寮費・食費含め)は年間約6万円のである。 私の場合は長女が10年生まで公立学校に在学、次女と三女は10年生をエフタースコールで過した。通常の学校で教育を受けられない、障害児、難読症児などへの教育はそのための施設を行政が整え、通学の送迎は行政負担のバスやタクシーを使い、保護者の負担とはならない。そのため、1人の難読症児の掛かる教育費は年日本円で250万円、タクシーでの送迎代1千万円を払っている市町村もあると報道されている。
デンマークの教師には人事異動制度がないため、その本人が望む限り、同じ学校に退職するまで勤務することが出来る。デンマークの教員資格は全国に適用され、義務教育においても科目別の専門職である。校長の選任は公募により、教育委員会が決め、校長職も本人が望む限り人事異動は無い。
教材の選択は各科目の先生の責務となっており、毎年配布される予算内で教材を調達しなければならない事情もあり、デンマークの義務教育で使われる教材は国家の認定を受けることも無く、ほとんどは8年から10年間使い、教材への補足は先生に一任されている。
今日、義務教育におけるデンマークの教員の労働時間数は、一般の労働市場と同じ週労37時間をフルタイムとしているが、教師の労働時間数はその中から6週間の夏休みや週末そして祭日を除き、1680時間である。この内、授業に当てる時間数は約916時間で残りは予習・復習・教員会議・試験など、授業以外の労働時間数である。デンマークの義務教育ではクラブ活動など放課後、子どもの習いことのために教師は拘束されることは無く、楽器やスポーツなど子どもの習いことは、行政が別に専門の施設を用意し、その指導員に報酬を払うようにしている。
義務教育中における習い事について、私達の場合、長女はピアノ、次女はチェロ、三女はバイオリンを弾くための音楽教室に通い、ガールスカウトのメンバーとして活動に参加した。私は子ども達の習い事のため、あるいはガールスカウトの集会や活動のため、運転手役として何年間も養豚や農作業の合間をぬって音楽学校、ガールスカウトの集会場などにドライブした。この課程でクラシック音楽に触れることが出来た。子ども達はその後「三重奏のスズキ姉妹」呼ばれるようになり、各地の集会で演奏をする機会を得た。楽器演奏によって集中力が育てたためか、限られた時間内で物事を習得する能力を見に付け、それが学校教育で活かされたようで、良い成績で学校を卒業した。そしてまた、隣の家まで500メートルも離れて生活していた私達は、子ども達がコンサートの準備で夜中遅くまで演奏練習を続けても、誰にも迷惑がかからない場所にいたこと、こども達の遊び友達が近くに居なかったこと、などで、姉妹同士の協力精神を育成した。結婚し家族を築き母親となった今日において、協力し合って生活しているところを見ると、子ども時代に田舎の生活で苦労を共にして得た「姉妹愛」が活かされているためだと思っている。そんなことから私達の農場生活はお互いの能力や才能を見出すための生活でもあったと思っている。
因みにデンマークの義務教育に携わるフルタイムの教師の年収は日本円で約1千万円になっている人もいるが、時給で比較するとデンマークの大工、左官工、電気工事屋など職人さんの消費税を含めない時給約320クローネ(約6000円)と同じ水準で、教員の時給約290クローネ(約5800円)である。
⑨ 入学試験が無いデンマークの教育
デンマークには、高校や大学など、上級学校への入学試験制度が無いため、義務教育後の進学・進路に関し、就学年数3年の商業・工業・普通高等学校に進学することに適しているか、手に職を持つための教育を受けるか。本人と保護者、そして学校の教育指導員の間で語り合い進むべき進路を決めることにしている。デンマークには学校で理論を学び、現場に出、理論を理解する「職業教育学校」ある。例えば、左官工、大工、航空整備工や自動車整備工の職を目指す人、あるいは一般事務員、歯科補助員、栄養士補助員としての職に就たい人は職業教育学校を選ぶ方が良い。なぜならば、「実習」の時点から給料が出るためでもある。何れにせよ、早く収入になる仕事に就く場合は職業教育学校に進む方が特である。最近の男女の進学先の傾向を見ると、女子は普通高校を選び、男子は商業・工業高等学校あるいは職業学校を選んでいる。
デンマークの職場には「会社員」という職業が無く、職業はあくまでも具体的職種での教育をしており、普通高校の卒業は職種にならない。また、仮に進路を間違えてもやり直しが幾度も出来る、例えば、高等学校から職業教育学校、職業教育学校から工業高等学校など転校や入学何時でも自由に出来、入学試験も授業料も無い制度が整っているためである。
私達の3人の子どもは公立の普通高等学校に進学した。普通高等学校は数理系と文系に別れ、前者は数学や物理化学に重点をおき、後者は語学に力を入れている。長女と三女は数理科に進み、次女は文系を選んだ。デンマークの高等学校は入学金も授業料は無くクラブ活動費も無い。教材も無料配布である。
デンマークでは普通高等学校の卒業資格を「スツデンタエクサメン」と呼び、3カ年間の学業成績の平均点は最低6、最大12点(最近13点が12に改正)としている。商業高等学校の卒業資格は日本語に直訳すると「上級商業試験」と呼び販売や企業会計学などの試験成績が含まれ、工業高等学校卒業資格は「上級工業試験」と呼び、建築学、製造など試験の成績が含まれている。成績の評価はステデンタエクサメンと同じで最低6点最高13点である。これら「スツデンタエクサメン」を取得するためには、3年間で最低10教科の口頭及び筆記試験に合格し、卒論を出すことになっているが、デンマークの高等学校の選択科目は70教科もある事から、学生の中には30教科前後の試験に合格している生徒もいる。
「スツデンタエクサメン」の点数が高いほど、大学で入学出来る学部が多くなる。例えば。「スツデンタエクサメン」を10点以上点数で卒業すると、デンマーク、ノルウエー、スウエーデン3カ国の大学のどの学部にも進学できる。デンマークの試験は試験官制度を導入しており、必ず他校の先生による答案用紙のチェックがある。理由はデンマークの学校は8年生(日本の中学2年生)から国家試験として1教科当り4時間~5時間の筆記試験がるが、筆記試験には教科書・参考資料全て持ち込みが許される。試験問題への解答は何枚にもなるレポートとして提出する。そのため、問題の解き方によっては出る解答が異なるため、その採点に公正を持たせるため、試験官制度を取り入れているのである。口頭による20分程度の暗記テストもあるが、暗記試験においても他校からの教師が試験官として立会い採点に当たる。職業学校においても同じ試験制度を導入している。そのため、学校間における生徒の成績の良し悪しが無く、進学校とか、進学のための学習塾も無い。
因みに今年(2010年)全国、最高点で卒業した学生は3年間の就学中に32教科の試験を受けその平均点が12.3(注)だと報道されていた。(注)最高点が12点であるが、最も高度な科目試験では0.3ポイント追加点が得られるので、総合点も増えた。
三人の子ども達は「スツデンタエクサメン」取得後、長女はコペンハーゲン大学の医学部に進学し、現在、病院勤務をしながら神経科専門医の道を歩んでいる。次女は、洋服のデザイナーの道を選択、デザイナーの養成学校コーリングフースを卒業した後、現在は洋服メーカーに勤務し主に子ども服のデザインと発注を手がけている。三女はオーフス大学の文学部、日本語学科に進学しさらに文学部に席を置ながら同時に経済学部での授業を受け、文学部と経済学部を卒業した。現在は世界最大の風力発電機メーカーに勤務している。
デンマークの高校を卒業した生徒の多くは、「サバドー」といって、半年から1年間学校から離れ、国内外で各種のアルバイトをし、そのお金で旅をし、社会見聞をしたり、就学期間中のハードな勉強から休みを取るためである。日本人の父親を持つ私の子ども達も大学に入学するまでの約半年間、日本に滞在し、日本の文化や言葉の習得に努めた。また、長女は就学中1年間休学しアルバイトをして暮らした。三女は国費留学で1年間「休学」した。デンマークの大卒の資格は「日本の大学の修士課程」であるため、大学を卒業する頃の年齢は20才の後半になっている。デンマークには、企業にしても公務員にしても、日本のようにまとめて新卒を採用する「新入社員制度」が無く、企業も行政もその都度必要とする職種教育を受けた人を募集している。
⑩ 保護者の扶養義務は18歳まで
デンマークは18歳で選挙権を取得し、被選挙権も18歳である。デンマークの保護者(親)の子供に対する扶養義務は18歳までである。この中には18歳を越え精神的、肉体的理由で就業も就学出来ない人達が居るがその人達には「早期年金制度」が適用される。早期年金制度では、その本人の体調(精神的・肉体的)に合わせ、支給する年金額が変わるが、最高額は日本円で年約340万円(2009年)である。保護者と同居の場合は減額される。成人年齢に達した18歳以上の学生の生活費は、デンマークではSU(就学支援金)と呼び、国庫が支給する。就学支援金額は就学中の学生への生活費などで返済する必要が無い。就学支援金の支給額は毎年調整されるが、今年(2010年)月額約5,000クローネ(約10万円)である。子育てをしながら通学する女子にはこの倍額が出、障害を持つ学生はさらに増額となる。就学支援金だけでは生活出来ない学生のために政府は融資制度を導入している。 就学中の学生の殆どは、親からの仕送りは受けていない。「成人になって親から仕送りを受けるわけにはいかない」というのが、学生の言い分であり、親も「自活能力を身に付けるためにも、仕送りしない」が理由である。私も、「これ以上親に負担をかけるわけにはいかない」というのが娘たちの言い分を聞き、3人の子ども達への仕送りはしなかった。その背景には、学生の多くは国庫から支給される就学支援金で生活しているためである。就学支援金だけでは生活費が足り無い学生には、国の融資制度を受けるよう勧めている。その理由はデンマークでは学部さえ問わなければ大学に入学することは難しくない。ただ卒業するのは困難でアルバイトに時間を充て過ぎ勉強に力を容れないと卒業出来ないためである。コペンハーゲン大学の例で見ると毎年入学する学生に対し卒業できる学生の割り合いは3割程度である。大学では正規の就学年数(経済学部・法学部の場合5~6年)で卒業するためには、予習・復習含め週40時間から50時間の勉強が必要であると語られている。
第4章 起業と風力発電事業への参入
① 41歳で商大入学と卒業
私は41歳になった、1985年の9月、農場経営をする傍ら「中部ユトランド商科大学会計学科」入学した。入学できたのはコペンハーゲン大学での就学中に「会計学」の試験を取得していたためである。デンマークの教育制度では、資格は何歳になっても通用するため、国民年金所得者になった人の中には大学に入りなおす人もいる。
私が入学した「中部ユトランド商科大学会計学科」の授業は、週3日間で、夕方(午後5時半)から夜(21時半)まで、サラリーマンや自営農の人達の余暇を利用して就学できる大学であった。
入学して来た人達の多くは20代の後半から30代の年齢で、メーカーに勤務しながらキャリアのステップアップを計るために入学した人、会計事務所に勤め、税理士や公認会計士を目指す人達であった。商科大学は基礎過程として理論教育2年間、専門課程は2年間で私は税理士コースを選択した。専門課程に進むためには基礎過程の試験をクリアーしないと進級出来なく、私は必須科目であった「国家経済理論」の試験を落し、1年間余分に大学に通った。そのため、卒業に5ヵ年間かかった。授業を持つ先生の多くは、時給で働く一般企業の経営者、公認会計士、弁護士などで教授と呼ばれる教育専門の先生はごく僅かであった。私が就学した時も今日でも同じだが、デンマークの職場は余暇を就学のために使う人達を側面から支援している。例えば玩具メーカー「レゴ」社でも、社員がキャリアアップのために就学したいと申し出れば、会社は教科書代、交通費、就学中の時間に残業手当を出すと語っていた。
私にとって、農場経営がハードな肉体労働だとすれば、商大での何千ページにもなる英語やデンマーク語の教科書を基に、デンマーク語で受ける授業や試験は過酷な脳ミソへの試練でもあったが、卒業後、SRA(スズキリサーチ&アシスタンス)が起業できたのは、商大時代に習得した忍耐と試練のお陰だと思っている。商大を卒業し20年経った今でも、英語やデンマーク語の本や資料を読むことが気にならないのは商大時代の訓練のためだと思っている。
「中部ユトランド商科大学会計学科」を1990年6月に卒業し、「会計事務所」での就職も考えてたが、実習のため、3ヶ月通った会計事務所で、企業会計の数字を見ながら毎日過す仕事に就くよりも、デンマークと日本の橋渡しになる仕事の方がやりがいあると思い、同年10月、子ども達が巣立った後の子ども部屋を事務所に使うことにし、資本金ゼロのSRA(スズキリサーチ&アシスタンス)を開設した。
デンマークで起業できたのは、起業するために必要な教育を殆ど無料で受けられたこと、人を育てる行政の支援や金融機関の理解があったことだと思っている。
(以下続く)