デンマークの「可能性への平等」と私の職歴
デンマークの「可能性への平等」と、 私の職歴
だれでも、職業教育、大学教育まで受けることができる教育制度
デンマークには「可能性への平等」という言葉があります。どういうことかと云いますと生活保護者の家庭でも、子どもたちは大学教育まで受けられるのです。何故ならばデンマークには小学校から大学教育まで授業料が無いからです。デンマークの小中高には私立学校が少しありますが、職業教育や大学教育は全て国の機関で授業料がありません。そのため、経済的に苦しい家庭の子どもたちはもちろん、全ての人が職業学校から大学教育まで受けることができ、就学中の学生には国から生活費が出るのです。
新たな職種へチャレンジできる教育制度
デンマークには約970種の職種があると云われており、資格を持たない人たちも職場で働くことが出来ますが、その人たちの給料は資格を持つ人たちに比べ安いです。デンマークでは資格を得ることによって、職場替えが自由に出来るようになっています。サラリーマンの給料は職種別でその受けた資格(教育)によって異なります。例えば事務員として弁護士事務所や会計士事務所、病院、旅行社などで働くための教育は10種類に分かれていますが、「事務員」の資格を持つ人たちの給料は職場と関係なく地域差は少しありますが、全国の事務員労働組合と雇用者組合の代表が決めるので、基本的には全国同じです。2014年におけるデンマークの事務員の平均月収額は22,534クローネ(約45万円)でした。また時給で働く事務員の平均時給額は173クローネ(約3400円)となっています。
これ以上の収入を得たい場合には職種資格のグレードアップあるいは別な職種を選ぶ必要があります。デンマークにはそのための教育機関が整っており、やる気のある人は職場に通いながら、新たな職種に就くための教育機関に通学し、そこで得た資格をもとに給料も増やすことが出来ます。デンマークの週労時間が37時間であるため就労後の資格を取るための教育を受けることが可能です。デンマークでは職替えは普通で、定年退職まで同じ職場に働く人は少ないと思います。
生産性の高い国民
その結果、デンマーク人の生産性が高く、所得が増え、納税額も増えるのです。デンマークの国家財政をみますと、国の借金率は国民総生産の約24%、政府予算の赤字率はEUの基準値内の1.3%(EUの基準対GNP3%以内)などで国家は健全な財政を組んでいます。
「可能性の平等」から生まれた私の職歴
夢に見た職場での仕事と、持って生まれた才能は別であることを、職場での経験を通して知った時に迷うのは、「自分が何をしたいのか、どのような才能があるのか」ということです。その時に再教育が受けられる機関が常時整備されていれば、いつでもやり直しができるのです。
ホテルの皿洗いからの出発
私の場合は、22歳の時にデンマークに入国し、お金も無く、たいした能力も無く、唯一もっていたものとすれば、健康であったこと、人生を運命に任せる勇気があったことだと思います。
デンマーク入国後3日目から生活費を得るため、ホテルの皿洗いという職に就いたのですが、東欧諸国から入国した外国人労働者仲間との間ではデンマーク語の会話さえ習得出来ないことが判り5週間で辞め、日本を出国する直前、生家岩手県東山町(現在一の関市)町長の紹介で知りえた元デンマーク農学校の校長先生クリスチャン ムラー氏の助力を得、ユトランド半島西北部のビリビアという田舎町の農場にホームステイをすることが出来ました。この農場には1967年6月から翌年の4月まで滞在しましたが、この農場で搾乳や養豚の手伝いをした経験が、1979年大使館を退職し、農場経営に踏み切る結果になったのです。農場でのホームステイで穀類の収穫、ビートの間引きや、サイレージ作り方など農作業の傍ら、農場から約1キロメートル離れたビリビア小中学校の4年生と中学2年生の国語と英語のクラスに入れて貰い、デンマーク語の習得に努めました。農場から学校までの通学用に牧師さんの奥さんが自転車を用意してくれたこと、22歳の外国人が、小中学校に途中から就学することに関して、特に問題にもせず入学を許可してくれた教育委員会の人達や、学校の先生方など、デンマーク人には、「組織は人を育てるためにある」という考え方が、この当時からあったようです。このデンマーク人の融通無碍性は、その後「風のがっこう」という研修センターを開設する時も、如何無く発揮されされました(行政からの特別許可によって開設できたのですが、その詳細は著書「デンマークという国、自然エネルギー先進国、合同出版146ページ参照)。
コペンハーゲン大学への入学
1968年9月、大学の授業を受けるには全く不十分な語学力にも関わらず、コペンハーゲン大学の政治経済学部に入学させてくれました。今考えると幸運だったとしか思えません。 何故ならば、今日, デンマークの大学の学部に入学するためには、デンマークの高等学校卒業レベルの語学力が要求されているためです。 そしてこのコペンハーゲン大学の政治経済学部に就学した経歴(資格)がなければ、その後農場経営の傍ら中部ユトランド商大に入学出来なかったし、同大学の会計学科を卒業することが出来なかった、と思っています。
アリイタリア航空、在デンマーク日本大使館に就職
コペンハーゲン大学の就学中にアリイタリア航空からの求人案内を受け、面接だけで採用が決まり、1970年4月コペンハーゲン空港でアリイタリア航空の飛行機の発着に必要な業務に携わりましたが、その業務は自分の性格には有っていないことに気が付き、就職9ヶ月後の12月、アリイタリア航空を退職し、1971年の1月, 在デンマーク日本大使館に現地職員として就職し,領事事務の補佐から始め、経済部や人事会計の補佐をしていました。
農場経営
1979年、35歳の時、ユトランド半島西北部で農場を経営していた舅さんが年金生活に入るため、農場を売り出したことを機会に、8年間勤務した大使館を辞め、所有していた自宅を売却し、デンマーク国籍を申請・取得(欧州諸国で農場経営の経歴を持たない人はデンマークの国籍を所持しない限り農地の所有は出来ないため)し、農地25ヘクタールの養豚農家を買い取りました。そしてその後、殆ど一から養豚農場経営に入ったわけです。全く農業ということを知らなかった私は、隣近所の農場主から多大な支援と協力を得、養豚農場をを経営しましたが、この農場経営がその後、研修センター「風のがっこう」を開設するために大きな役割を果たしてくれました。そしてまた、この農場経営の経験がバイオガスの研修を実施する上で大きな役割をはたしてくれたのです。
中部ユトランド商科大学会計学科に入学、卒業、そして起業
1985年9月中部ユトランド商科大学の会計学科に入学し、1990年6月、卒業出来ました。 卒業生の仲間の殆どは会計事務所に税理士として勤務しているわけですが、毎日数字相手の仕事は私には合っていないことを、実習先の会計事務所で知り、同じ年の10月、自宅を所在地とし、スズキ・リサーチ&アシスタンス(略称SRA)起業しました。 業務はデンマークと日本の業界の橋渡しに目標を置き、最初に手がけた仕事は通訳の仕事です。その仕事を通し、1991年1月からデンマークの風力発電を日本に紹介する機会を得ました。その当時、風力発電に関する知識を持っていたわけでもなく、数学や物理の知識もあったわけでも無く、風力発電に関しての知識はゼロの状態から事業に入ったのですが、幸運にも多くの人達の支援を受け、起業2年後の1993年2月石川県の松任市にデンマーク製の風力発電機第一号設置することができました。1994年には千葉県の勝浦、1995年には高知県の高知市そして沖縄県の宮古島とデンマーク製風車が日本に設置されるようになりその都度、建設工事のスーパーバイザーの通訳として訪日を繰り返しました。
「風のがっこう」研修センター開設
これらのデンマークの風力発電の対日輸出業務の過程で、研修センターの開設の必要性が出て来たのです。 ちょうどその頃、私の農場に隣接していた農地僅か、6.5ヘクタールを所持する農場が売りに出されたのです。売り出された理由は持ち主が母屋の新築工事にお金をかけ過ぎ、資金繰りが出来なくなったためだと言われていました。ただ、農地を持つ不動産を農業以外の目的に使うためには、県の許可を得る必要があり、県の審査を受ける前に町議会の審査と許可を必要としました。今でも信じられないことですが、「研修センター」としての開設許可願いを町役場に提出し、県からの認可が出たるまでに必要として日数は僅か30日だったのです。また、不動産の購入代金は全額銀行から融資を受けましたが、何ら問題なく融資してくれたのです。購入後、未完成だった母屋の内装工事に取り掛かり、ベットや寝具その他の備品を調達し、定員16名程が宿泊し研修が出来る建物が6月に完成し、研修センター「風のがっこう」として1997年6月15日に開設にしました。
「風のがっこう」の研修活動は主に、風力発電に関する研修、バイオガスや廃棄物の利用に関する研修、環境教育に関する研修、デンマークの環境・エネルギー政策事情についての研修をカリキュラムとしてきました。 現在(2016年2月)までに受講した人達の数は約2,000名で、一度だけ、スウエーデンからの研修生を受け入れたことがありますが、それ以外は日本からの研修生です。 研修を受けた人達の職業は中学生から大学生、会社員、公務員、農業経営者、政治家、学校の先生、弁護士、そして年金所得者などの方々です。
農場経営に関しては「風のがっこう」の研修活動が多忙になった1998年頃に、養豚は止め、手間がかからない肉牛の生産に切り替えました。その後さらに、風力発電の対日輸出事業と「風のがっこう」での研修活動が多忙になったため、2001年8月農場を売却し、町の中に一戸建て住宅を購入し自宅としました(この自宅は2003年離婚で妻に渡し、私は研修センターに移住)。
そしてまた、2006年9月、研修のニーズが減ったことを理由に、研修センターを売却し、同研修センターから約5キロメートル離れたウアンホイの町の中心地に、土地面積僅か480m2、建坪130m2にガレージ付きという小さな不動産を購入し自宅としました。
本の出版という夢を実現
今日では(2016年2月現在)、研修は町の施設を借りるか自宅で実施しています。そして2003年6月「風のがっこう」の研修資料を整理し、「デンマークという国、自然エネルギー先進国」という題名の本を出版しました(この本は2006年に増補版として発行)。
そしてまた、2008年3月には「なぜデンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか」(何れも合同出版)他、2010年4月「デンマークが超福祉国家になったこれだけの理由(合同出版)2010年11月「消費税25%で世界一幸せな国デンマーク」(角川SSC新書)、そして2014年7月「デンマークという国を創った人びと」(合同出版)を出版しました。
これによって、20代に夢見た、本になる原稿を書いて出版することも実現できました。そして、これらの著書の出版を通し、日本からの講演依頼、報道関係者からのインタビューが入るため、毎年数回程訪日する機会を得ています。
また、「風のがっこう」の研修生によって、2002年には「風のがっこう京都」が誕生し、2004年には「風のがっこう栃木」が開設され、支援活動をしました(現在は、支援は無くなりました)。
このように、デンマークの「可能性への平等」を通し、私自身の可能性を追求することができました。デンマークに入国し48年間の過程で、自分の可能性を発揮させてもらえた(ている)裏には、デンマークには再教育が何時でも受けられる場所が用意され、その教育を通し、新たな社会に参加できる機会と仕組みが出来ていることです。デンマークはヨーロッパの中で、外国人が最も多く労働市場に参加している国といわれていますが、その背景に、「可能性への平等」があるためだと思います。(了)