デンマークの労働組合について
●デンマークの労働組合ができるまで
1700年代の中頃、デンマークの労働市場は2つの労働者グループに分かれていました。
1つは、日当で働く「日雇い労務者」と呼ばれる未熟練労働者で、この人たちの日当や労働条件は雇用者と労働者との間で決めらていました。
2つ目は熟練職人で、この人たちの雇用条件は「同業者組合」(ギルド)の親方たち(雇い主)が決めていました。「同業者組合」とは同一の職種に携わる人達が集まりその職種に参入する人口の統制、職人教育、業務の質管理、職人の給与、そして顧客に収める労働力の値段などを規定するために結成された組合のことですが、この職種における労務管理以外にも、組合員との間でお祭りをアレンジしたり、病気や困窮に陥った組合員やその家族の救済活動にも携わっていたようです。 この当時、例えば、レンガ職、大工職などがなどのような同業者組合がありました。
1770年代の後半に入り、北米における独立戦争(1776-1783年)とその後における第一次ナポレオン戦争(1792-1806年)そして、ヨーロッパ全体の人口増加が、デンマークの通商、特に食料品の海上輸送に大きな利益を生み、また、デンマークにおいては農の穀類と畜牛の輸出が拡大するのです。
デンマークの農民が土地を保有できる制度が出来たのは1788年のことで、これ以前はデンマークの農地は僅か数百の大地主によって、農地から農奴まで支配していました。この当時デンマークの人口は約百万人といわれ、その内の8割は農村部に住んでいました。そしてこの封建社会においては保守的な自給自足体制つまり、農奴と地主の家族が何とか生活をしていけるだけの生産をし、それなりに安定していたのです。しかしながら、経済的に厳しい状況に置かれていた地主の中から、農奴に農地を売り渡す人達が出てきたのです。そして、農民を、生まれた場所に拘束していた「生地帰属農民制度」が1788年に廃止され、これによって農民が自由に職業を選べる地盤が出来、その中から農業労働者層と小規模ながら農場主になる人達、そして都市で働く賃金労働者に別れていくのです。この自営農業がその後デンマークの農業とデンマーク社会を支えるのです。
このようにして、デンマークの経済は国内の農業改革と他国の戦争によって拡大していきます。当時におけるデンマーク経済の拡大を通貨量で見ますと、1770年デンマークで流通した貨幣量は440万リスダーラ(現在のクローネの貨幣単位になる前のデンマーク通貨名で1537年から1872年まで使われた)、でしたが、10年後の1787年には1430リスダーラ増え、ナポレオン戦争が終った直後の1810年には7260万リスダーラと増大しています。この貨幣量から見てもデンマーク経済の急速な拡大が見えると思います。
デンマークの好景気の影響を受け、農業部門、造船部門における未熟練労働者の労働力の必要になり、日当が急速に増額していきました。しかし、「同業者組合」の意のままに低く抑えられていた熟練工の給与や労働条件は目立って改善されず、厳しい見習い修業によって技能を獲得したにも関わらず、未熟練労働者の待遇とそれほど変わらなくなったことから、熟練職人たちの間から不満が出始めました。
1794年、待遇に不満を持ったコペンハーゲンの大工たちが「同業者組合」の親方たちを相手にストライキを構えて抵抗するというでき事があり、このストライキ闘争を契機に、1800年3月21日、職人の給与や労働条件は同業者組合が一方的に決めるのではなく、労使間で個別に協定するという規約を導入し,また、労働者は賃金の団体交渉をしないという取り決めを作ったのです。 この当時デンマーク政府は労働者が結束するのをおそれ、労働政策では他のヨーロッパ諸国と同じように労働者が組織化するのを阻止する方針を採っていました。例えば、1835年ドイツの連邦政府は職人が労働組合を認めている国に渡航するのを制限し、労働者が団結する知恵を持つことを阻止する政策に出たのです。この政策の導入によってデンマークの統治領域であったホルスタイン州とローエンブルグ州も連邦政府の渡航制限策を導入しざる得なくなり、その結果デンマークの職人も諸外国への渡航が禁止されるのです。この政策に対し、労働者側から渡航制限は個人の自由を束縛するものであるとして解除を求めたのですが、政府はその政策続け、渡航禁止政策を解除したのは1862年のことです。
1857年には、デンマーク政府は職人の「同業組合」への強制加入を禁止しました。この禁止措置は労働者の組織化を防止することを目的としたものですが、同業者組合に加入出来ない職人たちはその結果、給与所得者になってしまい、職人の労働条件は他の労働者と同じように資本主義市場のルール基づき、雇用者が自由に雇用したり解雇できるようになってしまいました。その結果、職人たちの労働条件は一向に改善されず、労働者の中から団結して闘う声が出て、1869年デンマーク最初の労働組合として印刷職工組合が生まれました。これを契機に労働者の組合運動が活発化します。そして1871年10月15日にデンマークに「第一インターナショナル支部」が結成されました。この支部の基となったのは、1864年ロンドンで結成された第一ヨーロッパ・インターナショナル(ヨーロッパの労働者、社会主義者が創設した最初の国際的労働者組織)で正式には「カール・マルクスとフレデリッシュ・エンゲルス社会主義インターナショナル」と呼んでいたようです。この第一インターナショナルを創立したカール・マルクス(1818~1883)はドイツ生まれで、生涯、社会主義学者と呼ばれるのですが、1835年からイエナ大学で哲学と政治学を学びます。この後に出てくる、デンマークの労働運動のパイオニア的役割を果たしたルイス・ピオが生まれた年1841年に、イエナ大学で哲学博士の資格を得ています。マルクスは若い時から急進的著者で、例えば1848年にはフレデリッシュ・エンゲルスとの共同で『共産党宣言』(共産主義者宣言)を起草しています。
カール・マルクスは、1848-49年ケルンに在った新聞社で記者と編集をやっていました。革命失敗後の1849、年ロンドンに亡命しますが、その後、他界するまでロンドンに移住しそこで埋葬されています。こういうことで、マルクスはドイツ人でしたが、ロンドンに在住しながら、ヨーロッパの労働者を結束させるために働いたのです。その中で、1863年11月1日マルクスが起草した創立宣言と規約を基に、1864年、第一インターナショナル、ロンドンが結成されたのです。この中でカール・マルクスは労働者の貧困と権利獲得を概括し、政治権力を奪取することが労働者階級の義務である、と強調していました。また、規約には人種・信仰・国籍に関わりなく、真理・正義・倫理を行動の基礎として認めることを入れていました。そして協会に送る代表者は各国の労働者で構成されることし、総評議会は、各国の労働者組織の連絡を引き受け、労働者階級の運動を報告し、統計データの収集に努めること、そして国際紛争が起こった場合は加盟団体が統一して行動をとること、などのの取り決めを入れていました。 因みに第二、インターナナショナルは1889年パリで結成されました。
デンマークのインターナショナル支部開設の発起人になった人は、元軍人でもあり、郵便局職員をしていた当時29歳のルイス・ピオ、ジャーナリストのポール・ゲレッフそして、以前本屋を経営していたハラルド・ブリックスです。「インターナショナル」開設の目的は「資本主義」との闘争で、その手段は政治への介入と職場での労働条件の改善(特に給与額の大幅な改善)そして価格面で民間企業と競合できる協同企業を設立し、職場における労働条件を改善する、これらをの手段を通し、資本家の「搾取」から守り合う、としていました。このデンマークインターナショナル発起人の一人ルイス・ピオについて少し長くなりますが、デンマークの労働運動のパイオニアとして歴史の中に名前を残した人なので書き加えます。
●デンマーク社会主義運動の第一人者・ピオ
デンマークの労働組合運動の指導的役割を果たしたのは、ルイス・A・F・ピオ(1841年~1894年)です。ピオがデンマークの社会主義運動にかかわった期間はわずか4年ですが、デンマークの労働運動推進者の第一人者と呼ばれ、彼が他界し、半世紀過ぎた後の、1950年、デンマーク社会民主党は彼の労働運動への功績を称え、彼の生家(ロスキルド)に記念碑を建てました。
ピオの正式名はルイス アルバート フランコイス ピオで1841年12月14日ロスキルドで生まれました。 ピオの父母は美男・美女で、ピオが生まれた時、父親は陸軍中尉の職にあり36歳、母は34歳でした。ピオの曾祖父ジェーン・ピオはフランス人で1734年フランスのアンジョーで生まれた人ですが、1770年代にコペンハーゲンに在るフランス総領事館の護衛兵として勤務するため、デンマークに入国しました。その後、コペンハーゲンの警察官になります。1771年、デンマーク人と結婚し、1778年ルイス・ピオの祖父となるジェーン・ピアー・ピオが生まれました。ルイス・ピオの祖父は王立劇場のバレー養成学校に入学し、その後王立劇場の役者になりますが、仲間の苛めを理由に1811年王立劇場を退職しロスキルドにダンス学校を開設しました。それに先立ち1801年オランダ出身で、ダンサーの下で女中をしていた、ドーサ・C・ギーセ との間に子供(女子)が生まれたため、1802年結婚しました。そして1806年、ルイス・ピオの父ベルフェム・ピオが生まれたのすが、その直後、母親が他界したため、祖父は再婚し女の子を得ました。ルイス・ピオの父、ベルフェム・ピオは14歳から軍人教育を受け、1824年、18歳で少尉になり、オースボー市(デンマーク・ユトランド北部にある都市)に配属されました。 そこで、1808年ユトランド北部ブロックフースという町に生まれた資産家の娘アナ・マリア・ブリックに出会います。その当時アナ・マリア・ブリックスは大農場経営者と婚約していました。そのこともあり、彼女の父親は娘がルイス・ピオの父親との交際を嫌い禁止するですが、父親の反対を受けながらも、アナ・マリア・ビリックスはベルフェム・ピオとの交際を始めるのです。そして1831年父親が他界したため、アナ・マリア・ブリックスは母親と共にシェーランドの牧師の妻となって生活している妹をたよって移住し、そこで1833年ルイス・ピオの兄ジェーン・F・G・E・ピオを出産しました。
ルイス・ピオの父ベルフェム・ピオは36歳の時、軍人としての強さが欠けていた事が理由となり、軍隊から解雇されたのです。お金も無く、仕事も無く、住まいを失った、ルイス・ピオの父は、出産間近い妻と長男そして舅を連れ、ロスキルドに開設していた父親のダンス学校を訪ね、ダンスの教師として生活していた両親の下に移住するのです。そこで、ルイス・ピオが生まれたのです。ルイス・ピオの両親としてはどんなに惨めだったか想像しかねますが、父親側の元フランスの貴族出身という家系と母親の側の資産家の娘という誇りだけは忘れたくなかったのか、ルイス・ピオの幼児洗礼には上流階級の人達を招待しました。 その中でピオのゴッドマザー(名親:子供にかわって神に対し約束する証人)の役割を務めたのは、聖ハンス病院で検査官として勤務する夫を持つマダム・アナ・カトリーネ・ストッブです。そして、ゴットファザーの役割を勤めたのが、病院勤務の顧問医師、ドクターグリッシュでした。
ピオが生まれた1841年頃のデンマークは、人口の約6割は(注)、小規模な自営農業を営む家族と大農場や地主の元で働く日雇い農業労務者とその家族でした。これらの人達の生活は大農場や地主の管理下におかれ、労使の労働条件に関し国家はなんら関与していなかったため、過酷な労働条件の下で家族全員働かなければ生きていけない時代で在ったようです。本来ならば、過酷な労働条件下で働く人達が労働運動を起こすのですが、農場労務者は生き残ることで精一杯の生活であったため、不満を持ちながらも、労働条件を改善するための運動を起す気力はなかったとようです。そんなことから、労働運動を発端を作ったのは職業教育を受け、同業者組合(ギルド)に所属していた職人達であったのです。1800年の初め頃から職人教育を受け資格を持った人達増える反面、同業者組合の親方の規制で独立(マスター雇い主)する事は困難になってくるのです。そのようなことで、1840年代に入り職人教育を受けた人達は、雇い主になることを諦め、港や鉄道などの土木建設業界で大工や鍛冶の職人として働く労働者になっていくのです。そしてこの当時、繊維業やタバコ産業も生まれ、資格が無くても働ける職場が現われ特に女子や子供の労働者が増えて行くのです。この異なった労働人口の中で団体結社が出来たのは職人組合に加入出来る資格のある人達だったのです。ただこの当時、一般市民の大半は、資本主義は世界の秩序として受け入れなければならなく、労働運動は「善良な市民」のやることではない、という考えがあり、政治にもこのような考えがあったようです。そのような背景から、労働者が団結し、雇用者に労働条件の改善を迫ることを良しとせず、既に触れましたが、労働者の団体交渉権を剥奪するため、デンマーク政府は1857年、職人の「同業組合」への強制加入を禁止したのです。にも関わらず、10数年後には労働運動が活発になっていくのです。
(注)1840年のデンマークの人口総数は約130万人でその内農業労働人口の割り合いが46パーセント日雇い労務者の割り合いは13パーセントになっている。
1848年、ルイス・ピオが7歳の頃、コペンハーゲン市内にあった私立メルケヤー学校に入学しました。この学校は、1839年「特に優れた能力や才能が無くても努力する子供の教育機関として」開校された学校です。ピオの両親がこの私立学校を選んだ理由は他の学校に比べ、授業料が安かったこと、教育方針は高級な職業を選ぶ人達の教育では無く、郵便局や商店などで一般事務職として働く人材の養育を目標にしていたためだと云われています。1852年、ピオの両親が離婚したため、母親とともにコペンハーゲン市内の小さなアパートに引越しました。1853年夏、コペンハーゲンの大聖堂に隣接するメトロポリタン学校に、授業料無料の枠組みで入学しますが、同級生24人の親達の殆どは役人、大学教授、弁護士という中では「母子家庭の解雇された軍人の息子」としてレッテルが貼られ就学するのです。この上流社会の親を持つ同級生と両親の離婚で収入の無い母親との貧困生活をせざるを得ない自分との社会の格差、それと就学中立会ったた二つの事件がルイス・ピオに社会主義者としての芽を出させたと語られています。ルイス・ピオが立ち会った、事件の一つは、悪い成績表を親に見せるのを嫌がった仲間の一人が成績表を改ざんし、それが、学校に知られ、その罰として、校長は全校生徒を招集し、「この男は尊敬するに値しない人間なので、一緒に遊んだり話したりしてはならない」と訓示したのです。もう一つの事件は、同級生の一人が仲間から借りたか盗んだかした本を骨董品店に売り、そのお金でタバコを買い、それも学校に知られ、この仲間は儀式会場に呼び出され、全校生徒、教員及び職員全員の前で鞭打ちの体罰を受けたですが、その体罰に先立ち校長はその仲間に対し「この人間は尊敬するに値しない個人で、ドロボーなので、体罰は正当な処置である」と伝えたことです。この二つの事件に立ち会ったルイス・ピオは、権力者とそうでは無い者との間の人間としての溝を感じ、卒業一年前の1858年5月同校を退学しました。
丁度その頃、ルイス・ピオの兄ジェーンが大学進学に必要な資格試験(第6章で触れたスツデンターエクサメン)を採るための勉強をに入っており、その兄と共にルイス・ピオも勉強を始め、1859年1月、普通の成績で資格試験を取得しました。そして、彼は将来の職業として、最高裁の裁判官、大聖堂の司教、高級官僚、政治家への夢を描くのですが、お金も無く、支援を受けるあても無く、優秀な成績の学生を対象した奨学金制度も在ったのですが、普通の成績では受けられる資格も無く、今日とは違い、この当時、学生向けの融資制度は無かったため、結局生活費は自分で働いて得る方法しかなかったのです。そんなことから、ルイス・ピオは家庭教師の仕事を始めたのです。
1861年1月、ルイス・ピオは大学の進級に義務付けらていた哲学総論(哲学、論理学、心理学)の試験を取得するため勉強に入りました。この哲学総論の講義期間は1年間、授業数は週10時間でした。余談ですが、筆者がコペンハーゲン大学の政治経済学部に入学した1968年9月においてもこの哲学総論は必須科目になっていました。、そんなことから、デンマークの最高学府では哲学を学ぶことが義務付けられていたことを知ったのですが、この原稿を書いていてピオの時代にも哲学が必須科目になっていたことを知り、国家の指導的役割を担う人達の教育には哲学が必要だというデンマークの教育方針に改め感心しました。
ルイス・ピオは1861年から1863年まで、現コペンハーゲン工科大学に進学するため入学試験に挑戦するのですが、3回とも不合格となり、諦めたのです(再挑戦は3回まで)。そんなことで、1863年8月から学校の数学の先生になり生活費を得るのです。そして1863年秋から冬、ユトランド半島南部の領地の統治権をめぐりデンマークとドイツの間の紛争が始まりすが、この紛争が契機となってルイス・ピオは大学での勉強や止め、軍人としての道に進むのです。
1864年3月26日ルイス・ピオはドイツとの戦争に派兵され、南ユトランド半島のダナビエク要塞に駐屯しますが、特にめだった功績も無く、4月18日デンマークはドイツに敗れました。その後、1864年10月30日にはデンマークとドイツの和平条約がウイーンで締結され、それがもとで、1864年11月除隊します。その後ピオは数学の家庭教師で生計をたてながら、新たな仕事を探すをしました。そして1867年始めになって、コペンハーゲン郵便局でボランタリー(報酬無で働く見習い)として働き始めたのです。同じ年の8月、少尉として2ヶ月間の軍役の強制召集がかかったため、陸軍との間で1年間の勤務契約を結び、郵便局を止め兵役に就きます。この兵役期間中に、軍人に向いていないことを悟り、陸軍での勤務が可能だったのですが、止めて郵便局でのボランタリーの職に戻り、家庭教師として地理、物理、数学を教え、生計を立てながら、民族文学に興味を持ち、この分野の本を王立図書館からたくさん借りて読んでいたのです。そして王立図書館に通っている過程で、その後、社会主義者運動を共にする、元教員のポール ゲレッフに出会いまた、第一インターナショナルの発起にの一人となった従兄弟ハラルド・ブリックスに出会うのです。
ハラルド・ブリックスは1869年10月になって、主に宣伝広告を記載した「日刊新聞」を発行していましたが、ピオは名前を伏せて、その中に国内外のニュースや政治の記事を掲載するようになって行くのです。そしてまたピオは1869年11月民族文学書として、デンマークの神話に出ているホルガー・ダンスクを題材にした「神話の広がりと関係」(Dets udbredelse og forhold til mytologien)という100ページの本を出版しました。この本はデンマークの新聞、ドイツやフランスの文学評論誌で、高い評価を受けたのです。これによって、ピオは著者としての自信を得、その後も民族文学書を幾つか出版するのです。1870年7月フランスとドイツのの戦争が始まり、ピオは軍人仲間と共にフランス軍への支援部隊として参戦することにしていたのでしたが、出兵する同じ日、コペンハーゲンの郵便局から郵便職員としての採用通知が届き、戦争に出ることを止めたのです。 フランスとドイツの戦争でフランスが敗戦し、その結果としてピオのデンマークでの労働運動が始まるですが、フランス人の血を引いたピオが何世代も後にデンマークの労働運動の第一人になり、労働者を代表する政党、社会民主党設立の基盤を創る大きな役割を果たしたと言うこととは、既にその頃からデンマーク人の「共生」への国民性が存在していたためだと思えます。
29歳であったルイス・ピオとその仲間と「デンマークインタナショナル」開設したことは既に触れて通りですが、同じ年の1871年、デンマークの労働運動を盛り上げるため、「雑誌・社会主義者」を発行しました。この「雑誌・社会主義者」が発行されたのは、パリ地方政府が政府軍によって武力で鎮圧された事件直後であったこともあり、デンマークの労働運動に大きな力を発揮したのです。この当時、デンマークの中産階級の大半は社会の底辺に貧困生活をしている人達が今日に比べ、多かったにも関わらず、それは神が定めたことなので、しょうがないとして諦めていました。そんなことから、一般市民は、社会主義運動を勧める人達は、「下品」で「だらしないく」、「無作法な言動しか出来ない人達」として好まず、デンマークには社会主義運動は絶対入れないと一般市民の人達は思っていたようでした。 それだけに、ピオの「雑誌・社会主義者」の発行は大変のショックであったようです。 パリ地方政府弾圧事件について書き加えます。
パリの地方政府が開設したのは1871年3月18日のことですが、この地方政府が出来た背景は、1870年~1871年フランスとドイツの戦争でフランスが負け、ドイツ軍がパリに駐屯します。そのドイツ軍に対し、パリ住民が反抗運動を起し、ドイツ軍を追い出し、その人達の手によってベルサイユー政府とは別にパリに市民による自治政府を開設しました。これがパリ地方政府なのですが、フランス政府はパリの自治政府を認めず、同年の5月21日から武力行動に出、5月28日までの一週間に、男女や子供を含め2万人を殺害し、その他関係者3万8千人を投獄したのです。これによって、パリ自治政府は設立後僅か78日間で閉鎖せざる得なかったのですが、ピオはこのパリ事件を知り、その直後デンマークで「社会主義者」という雑誌を発行したのでした。
労働組合がとりわけ力を入れたのは労働時間の短縮と給与の改善でした。1870年代のデンマークの労働時間は週6日で1日あたり12時間~14時間、日曜日も午前中は働いていました。
建設業界における夏場の労働時間は日の出から日没までと長く(夏場の日の出は午前4時半頃で日没は夜の10時頃)、反対に冬場は仕事がなく雇用が中断され失業状態にあったとされています。 労働者はこの過酷な労働時間を短縮するため雇用者側と交渉を繰り返し労働時間の短縮、職場の安全や保健などの労働条件を改善していくのです。ピオの労働者へのメッセージは、「労働者は古いギルドとか労働組合を解散し、独自の指導層を持つ組織を作ることだ」と伝えていたのです。
既に触れましたが、ピオは労働者の結束に精力的に取り組み、その活動の1つとして、1871年から週刊の雑誌「社会主義者」発行し始めました。(この雑誌は1872年4月から日刊誌になり、1874年には名称を「社会民主主義者」と変え、その後さらに日刊新聞『アクチョエル』と名称を変え労働者の新聞として広く読まれて来たのですが、販売不振から2001年の春に閉鎖される)。 ピオは1872年4月から5月と続いたコペンハーゲンの左官職人の大ストライキに国家が武力弾圧したことに抗議し、雑誌「社会主義者」の第1面で5月5日、コペンハーゲン共同公園での大集会を呼びかけたのです。
翌年の1873年、デンマーク政府はデンマークの「インターナショナル」を禁止し、デンマークから根こそぎ労働運動を排除することを図ったのですが、デンマークの労働運動が壊滅したわけではありませんでした。1875年に入りデンマークが経済危機に陥り、労働者は雇用者との団体交渉が難しくなり労働運動が下火を見るのですが、その運動を盛り上げるために同年留置所から釈放されたピオとゲレッフ(Geleff)は労働者の結束を図るため労働運動を再開しました。
それに対し、1877年デンマーク警察はピオとゲレッフを逮捕し留置する代わりに片道切符と現金を渡しアメリカに移民(追放)させるのです。
●デンマークのナショナルセンターの誕生
指導者を失ったデンマークの労働者はこの後しばらく労働組合活動を停止してしまうのですが、1880年代初めからデンマーク経済が回復、それに伴い、労働運動も活発化します。
デンマークでは、1880年代の中頃から労働組合をどこに依拠して組織するかの論議が行なわれていました。 この中で議論されたことは組合組織は労働者が受けた教育別にするか、働いている職場別にするか、あるいはその産業の業界別にするか、そして、労働組合組織を地方レベルにするかそれとも職業別の全国レベルにするか、そしてまた、組織管理は分散型(地方ベース)にするか、それとも集中型(全国ベース)にするか語られたのです。1886年スカンジナビア労働者会議においてこの問題を議論した結果、職場を横断した職種別組合の協力をベースにした集中型(全国ベース)労働組合組織を推薦したのです。この当時、デンマークの産業がそれほど発達しておらず、労働者の大半は手工業での職人であったことを背景に、労働組合の組織は職場を横断する職種別を選択しました。一方で、職人組合に加入出来ない、繊維工場、タバコ工場、化学工場、製紙工場で働く少数の未熟練労働者の人達は産業労働者組合という組織を作り始めました。このような過程を踏み、1885年コペンハーゲンの労働者の3分の1は組合に加入していたといわれ、地方都市のオールボー、オーフス、オーデンセなどにおいても労働組合が結成され始めました。そして1900年にはコペンハーゲンなど都市で働く職人の最低半分は組合員とて加入し、この時代、デンマークの労働者の組織率は世界の労働者の中で最も高かかたのではないかと語られていました。 因みに1885年から1899年の間に、デンマークで結成された組合数は約50と言われています。この当時デンマーク最大の職種組合は、「建築職人組合」や「デンマーク鍛冶屋及び機械労働組合」でメンバー数は数千人に達していたのに対し、メッキ職人や石工職人の組合はメンバー数は数百人という小規模であったようです。 また女性の労働組合の結成では、1871年、タバコ製造会社の労働者による労働組合が結成され、1885年には洗濯及び掃除婦人組合を結成、そして1899年には、デンマークの労働層では当時最も低い位に位置づけられていた女中の組合、「コペンハーゲン女中組合」が結成されました。この組合結成の先導を取ったのは当時27歳の女中を勤めていたマリア・クリスチャンセンと言われています。このように、デンマークの労働者は1800年代終りから労働者の組合組織を固め、1898年1月、全国7万人の労働者を代表する400名がコペンハーゲンに集合し、「全労連」(De Samvirkende Fagforbund=LO)を発足させるいたるのです。
これに先立ち、雇用者側も1896年「デンマーク雇用者連盟」(Dansk Arbejdsgiverforening=DA)を発足させました。この労働者側を代表するLOと雇用者側を代表とするDAの間で賃金を含めた労働条件について団体協約を結び、それを全国の労使間で適用するという制度をつくったのです。
●1899年の大闘争を終結した合意
しかし、1899年には北ユトランドの家具職人が中央で決めた労使交渉の協約を不服とし、ストに入りました。これに対し「デンマーク雇用者連盟」は、全国の雇用者に労働者のロックアウトを命じました。この大規模なストライキの原因となったのは、当時労働賃金は物価にスライドして調整されていたのですが、雇用者側はこの制度の廃止を要求しまた、賃金の引き下げを求めて来たのに対し、労働者側の物価スライド制度の存続と低所得者の給与の改善を出したこと他調停人が団体協約交渉は「物価スライド制を除いて」交渉を続けるという機密情報を漏らしたことなどがこの紛争を大きくさせたと言われています。
この闘争は1899年の春に始まり、その年の9月まで続きますが、解決の糸口が見えないため、政府からの調停人(forligsmand)が加わり、この調停人の提案をもとに1週間の労使交渉を続け、その結果9月5日に団体協約書に署名し大闘争に終止符を打ちました。
この団体協約書は「9月調停」とも呼ばれ今日の労使交渉の基盤をつくった「憲法」とも呼ばれています。この労使間の合意はつぎのようなものでした。
・雇用者は労働者の団結権を認める
・労働者側組合(LO)と雇用者側組合(DA)はお互いを交渉相手とし認知する
・ストライキや紛争の予告に関する規定の導入
・労働組合は締結された協約期間中における紛争を承認したり支援したりすることは組織の責任として認めないこと、つまり「平和義務」(fredspligten)取り決め
・「平和義務」は協約期間の終結から新たな協約期間までのみ廃止できる。
・紛争期間の権利は決められた期間に制限する。
という内容の協定を結んだのです。
1899年の労使間紛争で所得を失った労働者に北欧諸国やドイツ、イギリスの労働団体から多大な支援物資が送られ、またデンマークの農民もロックアウトで生活できない人や家族に多くの支援をしたと言われています。この時の労使間紛争によって失われた労働日数は約283万日といわれています。これは、デンマークの労使間紛争で失った日数としては最大規模で、歴史上3番目にあたります。
ちなみに、1898年から1961年におけるデンマークの労使間紛争によって失われた労働日数のうち最大規模のものは、1922年は労働組合の内部抗争が原因で66日間のストライキのため、労働日数にして約220万日失われ、1925年の労働紛争には労働者10万人が参加し、労働日数にして約420万日が失われました。次いで、1936年の約295万日の労働日数が失われています。
デンマークの労使交渉とそれに伴う大きな紛争はその後も続くのですが、1961年までの労働運動と労使間紛争の中で失った労働日数で見ると1936年の約295万日、1946年約139万日、そして1956年では約110万日になっています。このようにデンマークの労使間はお互いの立場を理解し、同意するために膨大な労働日数を犠牲にしたのです。
この1899年9月5日に労使間で同意した協約の基本方針は、2009年3月現在も適用されていますが、この後、デンマークの労使交渉に問題が無かったわけではなく、特に1980年代ころから始まった、経済のグローバリゼーションは、人件費の高いデンマークの労働者から人件費の安い東欧諸国に生産根拠点を移転され、そのような経済情勢の中でデンマークの労働者がどのようにして生き残れるか、大きな課題を背負うことになるのです。そして、労働の賃金増額問題や労働条件の改善に対する労働組合の指導層とメンバーとの考えのズレが、紛争のキッカケにもなっているのです。例えば1998年における労働人口40万を巻き込んだ労働紛争の原因は、労使交渉の仲裁案を労働組合の指導層が受託することを組合員に薦めたのに対し、組合員はそれを不服として起きた紛争です。つまり労使交渉に当たる労働組合側の代表は、一般の労働者は職場に何を望んでいるか(最近のデンマークの労働者の多くは、給与額よりも休暇と自由時間を増やして欲しいという願望がある)把握出来ていないところで交渉を進め雇用者側と労使協定案を出し、それを組合員に提示するため、紛争を生む結果となったのです。にも拘わらず、デンマークの労使交渉は100年以上も継続し、今日、2009年8月において共存出来ている裏にはデンマーク人の「共生社会」に生きるための認識がしっかりと浸透しているためだと思えるのです。
●労働裁判所を開設
1910年4月12日、労使間における紛争を解決するための最高裁とも呼ばれる労働裁判所を開設しました。この労働裁判所で取り上げる問題は団体協約で締結された基本協約の解釈や違反に関する論争、団体紛争予告に関する合法性の論争そして団体協約と仲裁人権限に間する論争など、法的論争に関して審議し判決を出すことになっています。
例えば、ある1つの労働組合側が「平和義務」期間を無視し、賃上げ交渉などでストライキを起した場合は、雇用者側組合は違反行為として労働裁判所に訴えることができるのです。そして労働裁判所がストライキ違法行為として判決が出ると、労働組合に罰金が科せられることになるのです。
労働裁判所は、6名の評議会員と43名の労働法専門裁判官からなっており、裁判官の任期は5年で多数の給与所得者と雇用者組合そして関係官庁などの推薦により、雇用大臣が任命することになっています。
●労働運動から誕生した政権
1924年、労働者の支持を受けデンマーク最初の社会民主党政権(1924~26年)が誕生しました。この時の首相を務めたのがトーバル・スタウニング(1873年~1942年)で彼は葉巻選別工としての教育を受け、早くから労働運動に加わり、1910年に社会民主党の党首に選任され、1939年までその職に就いていました。
その後スタウニングは1929年から始まった第二次社会民主党政権での首相に就任し、1942年に他界するまで務めました。
このように、デンマークの労働者は100年以上に渡る熾烈な労使闘争と労働組合運動を通し国家の政策に直接影響を持つ政治団体を育成し、労働者のための住宅建設の増進や教育面、社会福祉面での改善などに向けた運動を続け、今日、世界の中でももっとも結束力の強い労働組合をつくりあげたとのです。 そしてその組合運動は今日においても、労働人口の約75パーセント近い約200万人の労働者が、特殊労働組合、デンマーク通商及び事務職員組合、職業共同組合、デンマーク金属組合、公務員組合、デンマークジャーナリス組合、デンマーク警察官組合、商業高等学校教員組合、デンマーク看護婦組合、歯科医組合、デンマークエンジニアー組合など全部で73の職種別組合に分かれ加入し、高い組織率を維持しているのです。
●なぜデンマークの労使組合の結束力は強いのか
デンマークの労働組合の結束力の強さとして、主な理由は、デンマークの労働組合は職種別組合を長年維持したことが挙げられます。この同じ職種の人たちが、お互いの利益を守るため、労働組合を結成し、雇用者との賃金交渉や年金交渉を進めているのです。ですから、デンマークの職場、例えば、銀行にしろ、メーカーにしても、1つの職場内にたくさんの労働組合のメンバーが存在しているのです。このことは、同一の職種に付く人たち同種が、守り合う制度で、ここにも「共生」が見えると思います。
職業資格や教育問題、あるいは組合構造問題などについては組合同士の指導部争いはなくこれらは内部の問題として処理し大きな紛争にしなかったこと、労働組合は政治と密接な業務関係を保って来たことだといわれています。
デンマークの労働者同士による共生について
●労働者の正義感が失業者を支える
デンマークの労働者が団結し組合を作ってから今日に至るまで、すでに110年以上の歳月が経っています。100年を超える長い間、労働者同士が守り合う組合を維持できてきたのは、労働組合が労働者のために働いているという認識があるためだと思います。
労使交渉での給与を含めた労働条件の改善以外に失業した人たち職場の紹介、雇用者への求人への支援、新規事業を開設するための教育支援などを通しできるだけ早く職場に復帰させるための支援をしているのです。そのような支援策があるため、就労者の8割近くが失業保険組合に加入しお互い支え合う「共生」への信頼関係ができているためだと思えます。
その結果、デンマークの就労者数の95%以上の人たちが就労し、失業者の生活を支えているのです。ここにデンマークの労働者の認識、つまり、時の経済事情によって誰でも職を失う時期もある、職があるかないかと関係なく、「仕事を失った仲間も生きるためにはお金が必要だ」という正義感がこの組合活動を支えて来た(いる)大きな理由だと思えます。
そしてまた、100年以上に渡りデンマークの労働組合が継続している裏には、デンマーク人の個人の能力や才能を伸ばす教育の中で習得した倫理教育や社会教育なども大きな影響があるように思えます。 なぜならば、デンマークの社会福祉では失業しても生活できるし、働かなくても生活できるのです。
●デンマーク人にとって仕事とは
社会福祉を充実すると国民は怠け者になって働かなくなる、労働条件が良くなると、人々は仕事から手を抜くため、生産性が落ちるので会社が存続出来なくなると、いう資本主義の神話がありましが、デンマークの例で見ると社会福祉の充実は、国民の生産性のマイナス要因にはなって入ないのです。例えばデンマーク人の生産性について見ると一人当りの国民総生産は日本人より多く(注1)、国民一人当りの輸出高は日本人の約3倍になって居ます(注2)。デンマーク人は食料を自給し、エネルギーも自給出来、さらに国家の財政も黒字になっているのです。そのようなことから、社会福祉の充実は、生産性を落としているとは言えず、社会福祉によって守られている分だけ、起業家が多く生まれ、それによって、また新しい産業が生まれ、その結果、国民の生産性を引き上げる役割を果たしているように思えるのです。
(注1)2007年GNPデンマーク一人当り37,596ドル、日本33,596ドル
(注2)2007年輸出額デンマーク一人当り約18,600ドル、日本約5,700ドル
ではなぜ、デンマーク人は仕事に出るのか、仕事に出る動機は何なのか、つまりデンマーク人の働くことへのモチベーションは何なのでしょうか?
★表/デンマークの就労者による仕事に出る動機
|
自営業 |
職員1 (注1) |
職員2 (注2) |
職員3 (注3) |
熟練工 |
未熟練工 |
仕事は自己の尊重 |
82% |
79% |
78% |
80% |
65% |
77% |
仕事は給料を得るため |
12% |
6% |
8% |
12% |
30% |
23% |
仕事に就かないのは、 社会からの孤立 |
42% |
9% |
27% |
42% |
20% |
34% |
興味のある仕事のみ就く |
27% |
30% |
36% |
32% |
25% |
25% |
就労で自活すること |
97% |
79% |
85% |
87% |
95% |
84% |
(出典:Arbejde, aktivering og arbejdsløshed, s.42)
(注1):トップリーダー、(注2)指導的立場のリーダー、(注3)一般職員
上記表で見る通り、なぜ仕事をするか、仕事をすることの目的の多くは自己の尊重と就労することで自活することだとし、お金を得るために仕事をするという考え方を持つ人たちが全体を通し少ないのです。 つまり、社会福祉によって働かなくても生活できるにも関わらず、多くのデンマーク人が仕事に就くのは、仕事を通し自己の尊重と自活という動機があるのです。それでも失業する可能性を考え、労働人口の75%以上の人たちは労働組合に加入すると同時に失業保険に加入し、お互いの生活を守り合うことにしているのです。
ここにデンマークの社会福祉の中で教育された人たちの「共生」の精神があると思えるのです。
もちろんデンマークにも、失業保険に入らず、自分の事だけしか考えない人たちもいます。たしかに下記表で見る通り、近年失業保険に加入する人たちの割合が減ってきてはいますが、労働人口の4分の3が失業保険に加入していることがわかります。
★表 デンマークの労働人口数に占める失業保険加入者率の推移
|
1997 |
2000 |
2003 |
2005 |
2006 |
2007 |
失業保険加入者率 |
79.2 % |
78.0 % |
78.0% |
76.9% |
76.6% |
75.0% |
(出典:Statistisk Tiårsoversigt 2008,s.46)
近年、失業保険加入者の割合が減ってきた背景には、デンマークの好景気の影響で失業する可能性が少なくなり、労働組合に加入し失業保険などの組合費を払うことを嫌う人たちが増えてきたためだと思います。ただ、2008年の秋から始まった世界の金融危機によってデンマークでも失業者数が増えてきていることから、失業保険をかけていない人たちの中で労働組合に加入する人たちが急増していると報告されています。
頻繁に職場を替えるデンマークの就労者
● 短い勤続年数
日本の就労者に比べ、移民を問わずデンマークの就労者の特徴は同じ職場に長く勤めていないということにあります。 デンマークにおける労働力調査を見ますと、同じ職場での勤続年数は男子で8・6年、女子で7・8年と短いものです。
例えば、首都圏行政区における公共部門就労者の勤続年数は8.4年、中部ユトランドでは9.0年と行政区での多少の違い、あるいは民間部門では首都圏行政区の就労者の場合は7.7年で職場を替えるのに対し、中部ユトランド地区の就労者は8.0年とで多少の違いがありますが、いずれも日本に比べて遥かに多く職場を替えていると思います。
なぜデンマークの就労者は職場を替えるのか、この中にはその失業によって職場を替えざるを得なかった例も少しはあると思いますが、多くの場合は職業上でのチャレンジを求めるためだといわれています。つまり職場を替える理由の大半は、職場は自分を成長させてくれるかどうか、にかかってくると云われています。筆者(私)の場合も仕事を替えた(替える)理由は仕事を通し、自分も学び成長したいという願望があるためです。 その背景には、デンマークの職場には日本の職場に見られるような終身雇用で勤続年数に合わせ昇給し、また管理職になるという制度ではなく、同じ職場にどんなに長く勤務しても資格が無ければ管理職にはなれないという事もその原因になっていると思います。そしてデンマーク人と日本人の大きな違いは職場への執着心が少なく、多くの人達は職場で自分も成長しない限り一つの会社に帰属することを喜ぶわけではないのです。
●就労者のための職業訓練学校
そんな事で職場を替える人たちのほとんどは就業しながら、勉強のし直し、新たな資格を身に付け転職するか、あるいは同じ職種の仕事でも職場を変えることで新たな仕事と仲間が得られる、それによって新しい生きがいを見出すことができる、このようなことが職場を替えていく理由になっています。
このような就労者の要望を満たすための職業学校や専門学校がたくさんあります。その1つが商科大学であり、また、職業教育センターです。この中で政府も、積極的雇用促進に関する通達を発効し、失業者や生活保護取得者をできるだけ早く労働市場で参加させるための支援策を講じているのです。
デンマークの就労率は欧州27カ国の中でももっとも高く、例えば2007年における労働年齢人口(15歳~64歳)の就労率を見ると、男子が81・2%で女子は73・4%、男女平均の就労率は77・4%となっています。デンマークについで就労率の高いのはオランダ(男女平均73・7%)とスウェーデン(男女平均73.4%)です。
デンマーク人は頻繁に職場を変えながらも欧州27カ国の中では就労率が一番高い理由は、職場を頻繁に替えられることによって、職場疲れが少なく、仕事への生きがいを見出しているためかも知れません。
デンマーク人の退職年齢について見ると男女の平均退職年数は61・9歳(2006年の数値)で欧州27カ国の平均退職年齢61・2歳よりも7カ月多く働いていることがわかります。
デンマークの多くの給与所得者は60歳から62歳を目処に退職し、年金生活に入ります。デンマークの国民年金取得年齢は現在65歳からですが、それまでの間の生活費は自分の貯金かあるいは「後期給与」(Efterl★o+/★n)によってまかないます。「後期給与」とは就業中に積み立て年金制度に加入していた人達が国民年金を取得するまで受け取れる年金です。デンマークのサラリーマンは60歳~62歳頃退職し、国民年金(現行65歳以上)までの生活費として受け取れる年金です。
デンマークを訪れた人たちの多くは週末や祝祭日に買い物ができなくて困ったことの経験があると思います。デンマークには「閉店法」(Lukkeloven)という法律があり、スーパーや商店など日曜日や祝日・祭日には商店を閉じなければならないことになっています。
現行の閉店法の基本規定ではすべての商店は月曜日の朝6時から土曜日の午後5時まで終日開店できることになっていますが、ほとんどの商店は月曜日から木曜日は午前9時から午後5時半を開店し金曜日は午前9時から夜7時まで開店しています。そして土曜日は午前9時から午後1時頃までの開店でその後は閉店となります。
閉店法では土曜日の午後5時から月曜日の午前6時までの閉店の義務と祭日・祝日、憲法記念日、クリスマスイブの夜と元日の午後3時以降一部の商店を除き閉店することが義務付けられています。ただし、下記に掲げる商品を取り扱う業務店は日曜日も開店してよいことになっています。
・燃料
・自動車、トラクター、農耕機械及び土木機械、船舶・航空機の燃料と付属品
・ボートと付属品、キャンビングカー、テントなど、
・植物、花や花輪
・家畜
・中古品
その他、日曜日の開店が認められている取り扱い業者には飛行場内の商店、駅やバス停に売店などで年間の売上高が2980万クローネ(約6億円)越えない業者
なぜ、デンマークで閉店法を導入したのか、一言で言えば、就労者の家族と家庭を守るためで、そこで働く従業員とその家族が日曜日や祝祭日の閉店によって一緒に過せるようにしました。
最近デンマーク政府与党はこの閉店法の廃止を検討していますが、商店に勤める人たちの労働組合は大反対をしています。
反対理由は閉店法が廃止されると、家族生活と職場(生活基盤)の両立が困難になるためだ、と言われています。そして労働組合は、もし政府が閉店法を廃止するならば、託児所や幼稚園も日曜日や祝祭日も開館しなければならないし、公共のサービス(バスや電車の運行)も平日並に運行する必要がある、と語っています。
このように、デンマークの就労者組合は就労者の権利の中に家族の育児も含めて雇用者側と交渉しています。しかしながら、2009年に入り、この閉店法はじょじょに規制緩和され日曜日も開店できるようになって来ています。つまり平日に忙しい人達は週末ゆっくり買い物をしたいというニーズに答えるような状況を受け入れてきている一方、金融危機の影響で消費が伸びない中での販売促進ということも考えられます。